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「おねえさまへ」 (後)


 ラケシス王女はご機嫌だった。
 朝、グラーニェと朝食を取る。兄は多忙で滅多に同席しないので、ほとんど二人きりだ。給仕の者が控えているものの、義姉とたわいのない話をするに支障はない。
 剣の鍛錬を見に来ていただけないかと問うたとき、グラーニェは本当に嬉しそうに微笑んだ。その笑みは、ラケシスの宝物だ。
 以来、午前の鍛錬に王妃が付き添う姿はよく見られる。
 それは騎士達にも程良い緊張を与え、歓迎される事柄だった。幼いながら的確な剣捌きを見せ、鍛錬相手を地に伏せた後グラーニェに自慢げな笑みを向ける王女と、惜しみない賞賛を送る王妃の姿は、騎士達にはとても微笑ましく映る。自分たちはこの愛しむべき御方達を守るのだと、そう思うのだ。
 午後、家庭教師に勉学を教わるときは、流石のラケシスも王妃を同席させることは出来ない。
 しかし、教師の目を盗んで部屋を抜け出し、自室の陽の当たる窓辺で静かに刺繍などをする義姉を訪れ、グラーニェ手ずからの美味しい紅茶を頂くのはなによりの楽しみだ。
 夕食時は、兄が同席することが多い。
 忙しくとも、この時間だけは親しい者達のために取っておくのだと、そう弁解めくエルトシャン王に、グラーニェは嬉しそうに、けど「無理はなさらないで下さいましね」といった。
 この時間だけは、義姉の「一番」は敬愛すべきこの兄になる。兄を尊敬しているし愛している。けど、義姉の頬を染めた様子を見ると、ずっと仕事をしてらして構わないのに、と思うのだ。
 それでつい、兄に厳しい眼差しを送っていたのだろう。
 どうかしたか、と怪訝そうにいう兄に。
 なんでもありませんわ、そう答え、ラケシスはにっこり笑った。



 エルトシャン王は不機嫌だった。
 執務が溜まりに溜まって多忙を極めているとか、隣国のバカ王子とウマが合わないとか、盟主と仰ぐ王の世継ぎが予想以上にぼんくらとか、そんなことは取りあえずどうでもいい。
 いらいらと執務机を叩く。
 腹心の騎士が、不穏な空気を察してか自分を遠巻きにしているのがいっそう腹立たしい。

 結婚して半年。
 彼はまだ、妻に触れていなかった。

 全てを息子に託し旅立ってしまった父のおかげで元々多忙を極める身ではある。
 それに、若く優秀な人間にありがちな、他人を全面的に信用して任せることの出来ない性分が輪をかけた。おまけに、手を抜いたり適度に息抜きをすることの出来ない、真面目というよりある種不器用な質でもあった。
 だから、丸一日妻の顔を見ない日も珍しくはない。
 そんなとき、妹が妻の相手をし、慣れない異国での不自由さや寂しさやを解消してくれているのは、正直ありがたいと思っていた。

 しかし、しかしだ。

 式を挙げた日。溜まった書類が気にかかり、「わたくしのことはお気になさらず、なすべきことをして下さいませ」といってくれた彼女に甘え、手早く書類を片づけ部屋へ戻るとグラーニェの姿はなかった。
 城内でも散策しているのだろうか……夜だというのに?
 不審に思い探しに行こうと部屋を出ると、腹心の騎士イーヴの姿。彼は、いいにくそうな面もちで、王妃様はラケシス様がお連れになりまして、と答える。
 首を傾げつつラケシスの部屋を訪れると、返答がない。ここで、ラケシスが一五を超えた年齢であったなら、たとえ妹といえどエルトシャンは遠慮しただろう。しかし妹はまだ一二の子供で、だから彼はラケシスの部屋へ入り、薄明かりの中ベッドサイドに近づく。
 はたしてそこには。グラーニェと、彼女の豊かな胸に顔を埋めるようにして眠る妹の姿があった。
 妹が、兄嫁をこうも早く受け入れているという希有の幸運と、そしてその微笑ましい情景に。エルトシャンは小さく苦笑し、二人を起こさないように静かに部屋を後にしたのである。
 思えば甘い判断だった。
 その日以降、エルトシャンが自室へ戻るのが遅い日に妻が待っていてくれることは一度としてなかった。

 責めないよう言葉を選びながら、どういうことだろうと聞いたことがある。
 グラーニェが答える前に、当然のように同席していたラケシスが答えた。
「わたくしは遠く外つ国から嫁いで下さったおねえさまが、心細い思いをして欲しくないのです。お兄様がお忙しい分、このラケシスが一緒にいれば、おねえさまは寂しくないでしょう?」

 急ぎではない仕事を後回しにし、早い時間に執務を切り上げ妻と過ごす時間を持つこともある。というか、最大限に努力してそういう時間を持とうと心がけている。
 しかし、就寝時間になると、必ず、
「怖い夢を見ましたの。不安で一人では眠れません」
 そういって妹が、自分と妻の間に潜り込んでくるのはなぜだろう。
 可哀想に。そういって妹を抱きしめるグラーニェと、ぬくぬくと妻に抱きつくラケシス。本当なら今頃、あの腕の中に居たのは自分なのに――そんな情けないことを考え、ちょっと苦悩するエルトシャンである。

「アレは――一体、なんだと思う?」
 指示代名詞でもってつぶやく王に、控えていた騎士イーヴは「はあ」と力無く答えた。
 イーヴは、王の寝室の実情までは流石に知らない。ただ王女が、家臣達の心配とは逆に兄嫁になつき、しかし王は、本来なら喜ぶべきその事態をあまり快く思っていないことだけは察せられた。
 だが、なんだといわれてもイーヴにもなにがなんだかさっぱり判らない。ただ、初対面時のアレが始まりなのだろう、ということだけは判る。

 アグストリアは礼を重んじる騎士の国で、感情をストレートに表すことに慣れてはいないし、他人に気安く触れることもよしとしない。
 そんな気風の中に育ったラケシスにとって、直接的でスキンシップに溢れたグラーニェの感情表現は相当衝撃が大きかっただろう。
 かつてイーヴは、レンスターの王太子夫妻がアグストリアを訪問したとおり、その人目憚らぬ仲睦まじさをして「はしたない」と思ったものだが、しかし、かの国レンスターではごく当たり前のことらしい。
 しかし当たり前でないラケシス王女は、戸惑い、うやむやのうちに全てを受け入れすぎてしまったのかも知れない。
 或いは。アグストリア人にとって、「触れ合う」ということは、ごく親しい者の間にのみ許されるものであるのだが、それが、「親しいから触れ合う」が「触れ合うから親しい」にすり替わったのかもしれない。

 と、同じく控えていた騎士――イーヴのもう一人の弟、エヴァが口を挟んだ。
「ラケシス様は、王妃様に亡き母上様を見ているのではないでしょうか」
「あれの母親とグラーニェに似たところはないぞ」
 エルトシャンは眉をひそめる。
「いえ、似てらっしゃるということではなくて――」

 肉親の縁に薄く幼くして母を失ったラケシスは。病に伏せる母の姿しか覚えていないといった。そのうえ母は、病のうつることを怖れてか――伝染性のものではなかったのだが――娘を近寄せることをよしとしなかった。
 他人を羨ましがることは、己の誇りが許さないのだろう。けれど、エヴァは。王女に付き従って町に出たときに、幼子を抱き頬ずりする母親の姿をぼんやり見ていたラケシスの姿が、強く印象に残っていた。
 だから、ラケシスは。己の目の前にいる唯一の、目上で、大人びておっとりとしたグラーニェに、得られなかった「母親」を見ているのではないか。母への憧憬を、投射しているのではないか。

 妹が彼女にそこまでなついた理由は、そうかも知れない、とエルトシャンは思った。だが、自分と妻との仲を邪魔するような行為にまで及ぶのは、いかなる理由によるものなんだ?

 と、軽いノックの音。誰何すると、
「グラーニェです、陛下」
 話題の主の片割れが、静かに部屋に入ってきた。手に、刺繍道具一式を持って。

 エルトシャンは昨日、ラケシスの目を盗んで――なぜ自分の妻と話すのに、妹の目を盗まなければならないんだろう――グラーニェにいったのだ。
 自分は忙しい身で、家族と過ごす時間を特別にとるのはそう簡単なことではない。しかし、自分たち夫婦は余りにコミュニケーション不足ではないか。だから一人で居る時間が出来たなら、執務室に来てくれないだろうか。――一緒にお茶を飲んだり話をすることは出来ないが、傍らで刺繍などしていても良いから――話していて、段々自分が情けなくなってくるエルトシャンである。
 グラーニェは、花が開いたように微笑んだ。わたくしの存在がお邪魔にならないのであれば――そういって頬を染めた妻を、エルトシャンは愛おしいと思った。

 そんなわけで現れた王妃は、イーヴに勧められた椅子に腰掛け、王に微笑みかけた。
「すまないな。これが片づいたら、お茶にしよう」
「お心遣い、ありがとうございます」
 エルトシャンの言葉に謝意を表した後、グラーニェは持参した道具に手を伸ばした。
 しかし、作業を始めるでなく、仕事に戻った王の姿をほれぼれと見つめている。
 王は、けして蔑ろにされているわけではないのだがなあ。夫婦の姿に、イーヴは小さく苦笑した。



 しばらく後。
 ばぁん! と執務室の扉が大きく開かれて。
 幸せな時間は終わった。
 つかつかと入ってきたラケシスは、グラーニェの姿を認めるや駆け寄り、その腕を取って立ち上がらせ。
「おねえさま。ラケシス、薔薇のお紅茶を頂きましたのよ」
 グラーニェを、甘えたように見上げる。
 勉強はどうしたんだ、といいかけるエルトシャンを遮って、ラケシスは続けた。
「とっておきの砂糖菓子を出しますわ。一緒に頂きましょう」
 素敵ですね、そういうグラーニェににっこり微笑み、ぐいぐいと腕を引いて自室へと促した。
 退出間際、エルトシャンを振り返ったラケシス。べえ、とあかんべを一つ残し、妹は妻を連れ去った。

 唖然とそれを見ていたイーヴは、王にちらりと視線を向ける。いっそう憮然となった様子に、小さく肩を竦めた。
 一方エヴァは、俯いて震えていた。
 そうか、と思う。あれは、とても覚えがある。
 かつて。三つ子であった自分たちを、母は平等に扱おうと腐心し、自分たちは母の「一番」になるため腐心した。けれど留守がちな父がたまに帰ると、たちまち母の「一番」を獲得して。それが悔しくて、父母の間に入り込んでいろいろ邪魔をした。
 子供らしい嫉妬と、独占欲。
 ラケシスは、自分を差し置いてグラーニェの「一番」になってしまうエルトシャンに対して嫉妬しているのだ。ライバル心を抱いているのだ。
 それを王に告げるべきか。エヴァは迷った。それ以前に、今口を開いたら声をあげて笑ってしまうという切実な問題があるのだが。

 そして王は、とうとう決断した。
 このままでは、自分はグラーニェと永遠に「夫婦」になることは出来ない。世継ぎをもうけられずノディオンが滅ぶ、という建前以前に、自分が保たない。いろいろな意味で。



 ユングヴィ公国のエーディン公女の元へ、行儀見習いに行きなさい。
 半ば命令であったそれに、ラケシスは激しく抵抗した。
「嫌です。行儀見習いなら、おねえさまに教わればよいではありませんか。おねえさまは非の打ち所のない貴婦人ですもの、充分過ぎる程でしょう?」
 その「おねえさま」から遠ざけたいんだよ、とは思っても口には出してはいけないエルトシャンである。
「だめだ。グラーニェはお前に甘過ぎる。
 ユングヴィのエーディン殿はシグルドの友人で、キュアンの妻となったエスリン嬢もそこへ行儀見習いに行ったそうだ。それに、隣国の年頃のものが滞在しているとあったから、お前もいい友人が出来るんじゃないか?」
「滞在していると、あった?」
「ああ。すでにエーディン殿の了承は取り付けてある。お前がいつ来てもよいように準備をしてくれているところだ。
 ラケシス。お前はこの国から一度も出たことがないな。俺は、若いうちに自国以外の文化に触れることはとても大事なことだと思っている」
 若過ぎやしませんか。イーヴはツッコミを飲み込む。
「そういうことも踏まえ、お前をユングヴィへ行かせようと思ったのだ」
「けど」
 なおもいい募るラケシスに、エルトシャンはいった。
「もう決まったことだ。出発は明後日。持参したい荷物などをまとめておきなさい」



 四月後。

 エルトシャンは書類の仕上げにサインし、順を通し一山にまとめた。
 顔を上げると、こちらを見ていた妻と目があう。
 グラーニェはふわり微笑んで、再び刺繍の針を動かし。
 まだ全く目立たぬ、けど確かに命の息づくその腹に、たまにそっと手を置く。
 懐妊の知らせを受けたのは、半月前のこと。安定期に入るまでは、発表は差し控えたほうがよいかと。城付きの医師よりの忠告を受けいれ、腹心の者達にしか事実を知らせてはいない。
 もっとも、過剰に妻を労る王の姿に、城内の者達は事情を察しているだろう。
 相変わらず多忙で、殺伐とした事柄にも煩わされる毎日である。それでも心穏やかであり、自分は幸せなのだと思う。
「少し、休むとしようか」
 エルトシャンの言葉に、グラーニェは立ち上がった。少しは動いた方が、身体によいのですよ。そういって、心配する王を制してお茶の用意をする。
 と。
 お待ち下さい、落ち着いて、と。廊下で、なにかを宥める騎士の声。そして近づいて来る足音。おだまりなさい、というひどく聞き覚えのある、甲高い、少女の――

 ばぁん! 

 乱暴に扉は開かれ、黄金の髪を揺らす少女が飛び込みざまいった。

「ひどいわお兄様! わたくしのおねえさまを、お汚しになったのね!」

 ずるり。エルトシャンは椅子から滑り落ちる。
 後を追いかけてきたらしいイーヴは、入り口近くで固まっている。
 グラーニェがおっとりと、まあラケシス様お帰りなさいませ、と声をかけた。
「ただいま戻りましたわ、おねえさま。ラケシスはおねえさまにお会いできなくてとても寂しい思いをしてましたのよ」
 グラーニェに歩み寄り、その手を握る。
「……ラケシス」
「なんですの、お兄様」
「人聞きの悪いことをいうな」
 唸りながら、なんでラケシスに連絡なんかしたんだ、とイーヴに目線を向けるエルトシャン。
 ひきつりながら、イーヴはまたしてもうっかりラケシスに事実を伝えた末弟を、この手で一度といわず殴ってやろうと決心していた。
「まあ、お兄様! わたくしは事実を申しているまでですわ! おねえさまがご懐妊なされたということは、お兄様がおねえさまを……ああ! 汚らわしくてこれ以上いえません」
 ふるふると首を振るラケシス。
「ラケシス様は、喜んでは下さらないのですか?」
 グラーニェが悲しげに眉根を寄せる。
「いいえ! おねえさま! おねえさまの喜びはこのラケシスの喜び。ご懐妊、おめでとうございます」
「ありがとうございます、ラケシス様。ラケシス様に祝福して頂けることは、この子にとってなにより幸いですもの」
 そういってまだ平たい腹を愛おしそうに撫でるグラーニェに。
 ラケシスは立ち上がっていった。
「安心して下さいませ、おねえさま。おねえさまも、おねえさまのその御子も、このラケシスなにがあっても守って差し上げます。ラケシスは、もうおねえさまのお側を離れませんわ。
 よろしいですわね、お兄様」
 有無をいわせぬ迫力の妹に、エルトシャンはただ唸り。
 再び始まる苦悩の日々に思いを馳せ、我が世の春は短かったなあ、と、深く深く溜め息をついたのだった。

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