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「おいしい生活」
海を挟んでシアルフィが見える。
自由都市群の北端、ミレトス城。
グランベル本国へ渡る船の手配は着々と進んでいるようで、今少しすれば具体的な出発の日時を知らせる伝令が城中を駆け回るだろう。
ラクチェは。
朝一で、兄の部屋を訪ね。ユリア誘拐の現場に居合わせ、阻止できなかったことを未だ悔やみとことん沈んで寝台に突っ伏すスカサハの傍らに腰掛けた。
くい、と髪を引っ張る。スカサハは、顔を上げずただ煩そうに手を振った。力のない仕草。
背に、のし、とのしかかった。知らない間に青年になった背中は、じんわりと暖かい。
「スーカーサーハー」
間延びした声で名を呼ぶと、胸の下の兄はやや身じろぎして唸った。
「大丈夫だよ」
前置きなく根拠もなく、けど迷いなくラクチェはいった。
ラクチェは足取り軽く食堂へ向かっていた。
朝食への誘いは断られたけど、スカサハはラクチェの言葉に「ああ」と返事をしてくれた。
戦場での必要事項以外全くの無口になっていたスカサハが、ああ、と。
その声はかすれていたけど、ラクチェは安心した。もう大丈夫。あとはユリアの居所を突き止めて、助けに行くだけ。
そうして、ご機嫌な勢いで、食堂の扉をくぐった。
しかし。
そこでラクチェは足を止めた。
食堂には何人かの兵士が居たが、それにしては静かだった。首を傾げ彼らの注意が注がれている辺りに目を向ける。
エアポケットのように空いた空間に、見知った人間が居た。
金の綿毛の少女と、金髪の射手。ラナとファバルだ。
肩を寄せ合って、二人はひそひそ話をしているようだった。やけに密着して。やけに深刻な状況で。
兵士達が静かなのは、二人の雰囲気に呑まれてのことだろう。あからさまに耳を澄ますことも出来ず、さりとて静かに立ち去るには惜しい、そんな心持ち。
更にラクチェは。
余計なところに、想像が飛んだ。
ラナとファバルは、長いこと互いの存在を知らなかったとはいえ、いとこ同士である。親戚ならではの話――特に互いの両親、母親の話など、積もるところはいくらでもあるし、こうやって顔つき合わせていても何ら不思議はない。
けど、密着さ加減とやけに深刻な空気が、気になる。
それにそれに。こんな様子を「そーゆー話」が大好きなパティやフィー、あるいはナンナ、シャナンさまに見られたら!
ナンナはファバルの恋人だ。そしてシャナンは、ラクチェの見立てでは最近ラナといい雰囲気になっている。
けど。もし目撃して、はたまた噂を聞いて、変に誤解して、そうしてそうして、いろいろこじれたり壊れたらどうしよう。特にシャナンさまは、齢三〇にしてやっと出来た恋人だというのに!
先走って激しく失礼な考えに至るラクチェである。ここに彼女の兄がいたなら、別にシャナンさまはもてなかった訳じゃないぞお前が知らないだけで、とツッコミを入れ従兄殿の名誉を守るだろう。しかし兄は、未だ部屋でヘコんでいた。
と。
これ以上足を踏み入れるべきか逡巡していたラクチェの横を、豪奢な少女が通り過ぎていった。真っ直ぐに、ファバルとラナの元へ向かう。
ナンナだ。
通りすがりに見えた表情が硬かった。
ラクチェは息を呑んでその行動を見守る。
二人の元で立ち止まったナンナは、二、三言葉を交わし、それから厨房へ向かった。
遠くて、会話の内容はよくわからない。ただ、一瞬ナンナが激高し、ラナがそれを諫めたようだった。
やがてナンナが、トレイを持って戻ってきた。
ファバルの向かいに、乱暴に音を立てて座る。
再びなにか話している。ナンナがしきりになにかを訴え、ファバルが冷たくあしらっているように見えた。ラナは間に入って両方を宥めている。
途端、ラクチェは合点がいった。
ファバルとナンナが喧嘩をして、ラナが仲裁役をしているのだ。心変わりじゃないよ、シャナンさま、よかったね。
余計なお世話だ、という声がどこからともなく聞こえそうだ。
とまれ。安心したラクチェは、自分もラナに助太刀しようかと、彼らの元へ行こうとした。
ぎょっとした。
いきなりナンナが、両の手で顔を覆っている。
ラナが傍らへ移動し、肩に手を置いた。心配そうに、顔を覗き込む。
ナンナはいやいやをするように首を振り。そして、がたん、と大きな音を立て、立ち上がった。
そして。
顔を覆ったまま。走り去る。
入り口に立つラクチェは、思わず扉枠にへばりつき、ナンナのために場所を空けた。
ナンナの両の手から垣間見えたその頬は、涙に濡れていた。
食堂に目を戻すと、ナンナの座っていた椅子に腰掛けたラナが、ファバルをじっと睨んでいる。
ちっ、と。ファバルの舌打ちが聞こえた。
窘める様子で、ラナがなにかをいう。
それでも憮然としていたファバルだが、渋々といった風に立ち上がり、そのついでにテーブルに手を伸ばした。
不意に。
ファバルはテーブルに両手をついて俯いた。
ラナは困ったように、ファバルを見上げている。
ファバルは片手で顔を覆い。そして足早に、その場を離れた。
ラクチェは再び扉枠に身を寄せ、足早から全力疾走に移行するファバルを呆然と見送る。
垣間見えたファバルの顔も、涙に濡れていたのはどういう訳だろう。
場を去りがたかった兵士達は、一連を見守った後あるのもは退出し、あるものは食事に戻る。
そしてラクチェは。
呆然とした様子のラナへ歩み寄り、向かいに座った。
「ああ、ラクチェ」
疲れたような、ほっとしたような。そんな表情で、ラナはラクチェを見上げている。
「おはよう、ラナ」
「おはよう。……今の」
「うん。一部始終、見てた。なんだったの」
ラナは小さく肩を竦め、ふう、と息をつく。
話し出した。
「シャナンさま達ね」
いきなりの予想外の単語に、ラクチェは面食らった。
シャナンさま? シャナンさまが今のアレに、なにか関係してるんだろうか。
けど、疑問は脇に置き、ラクチェは取り敢えず相槌だけうつ。
「ここのところ連日、会議続きで夜遅いでしょう」
「うん」
「それで、夕べ、お夜食拵えて、一緒に頂いていたの」
わたしはお腹が空いていたわけじゃないから、お茶を頂いていただけだけどね。いい訳するように、ラナ。
「そうしたら、ナンナが来て」
ふと、ラクチェはテーブルの上に目を向けた。
「わたしもファバルに、手料理を作ってあげたいって」
皿の上に、ややいびつなビスケットがのっている。
「パティがセリスさまにお弁当作ってあげているのを見てて、いいな、って思ってたんだって」
ラクチェはそれに、手を伸ばした。
「それでナンナも……って、ラクチェ!」
え?
突然のラナの悲鳴のような声に。
ラクチェは手にしたビスケットを、取り敢えず一口に放り込む。
もきゅにゅ。
ビスケットにあるまじき、食感だった。
口内に広がるのは。
もったりとしてしつこく、どこか突き抜ける、得体の知れない味わい。
甘いとか、辛いとか、そういう形容を超越した彼岸に、それはあった。
そのまま咀嚼し続けるとなにかが開けそうだ。悟りとか、地獄の釜とか。
不意に。
鼻の奥がつんときた。
刺激。涙腺がゆるむ。
ぶわっと。涙が溢れた。ぼろぼろと。滂沱に。
もう、限界だった。
両の手で、口を覆い。ラクチェは立ち上がった。
ここじゃない、どこかへ。行かなくては。早く。今すぐに。
ラクチェは走り出した。
目指すは。
訓練場脇の水飲み場には先客があった。
うがいをし顔を洗う両人、ナンナと、ファバルだ。
そこに駆け込んだラクチェは、排水溝へ口内のそれを吐き出した。同時に水を出し、口を濯ぐ。何度も何度も。丹念に。
ついで涙に濡れた顔を洗い流した。両の手も。
ざばざばと流しても尚、なにかが口の中に残っている気がする。
ラクチェは頭をぶんぶん振るって水をはねとばした。そこへ、
「大丈夫?」
おっとりとした声がかかる。
ラナが、タオルを差し出していた。
「あと、口直しも」
見やると、へたり込んだナンナとファバルが、同じくラナに渡されたと思しきタオルを頭に巻いて、なにやら果実水を飲んでいる。
「檸檬水よ」
手渡されたそれを、こくり口に含む。
爽やかなシトラスの香り。
やっと人心地つけたラクチェは。のろのろ木陰に移動し、ずるずると木に沿って滑り落ち地面に四肢を投げ出した。
ラナやパティに料理を習って合格をもらうまでは、二度と人に手料理を食べさせません。
気落ちしてナンナが誓い、ファバルが心からほっとしたように破顔した。その態度に、ナンナは仏頂面でファバルの頬を引っ張る。
そんなふうにしてじゃれ合った後、二人は肩を並べて去っていった。取り損ねた朝食を、改めて一緒に取るのだという。
まだ脱力したままのラクチェは、寝っ転がったまま顔だけをラナに向けた。
「えーとつまりあのビスケットが?」
テーブルに鎮座ましましていたちょっといびつな焼き菓子もどき。
「ええ。ナンナの初めての手料理」
つまりあれは、手料理を食べさせたいナンナと逃げたいファバルの攻防だったのだ。そんなにいうならまず味見をしろ、との訴えに応えたナンナ。ナンナが走り去った後、せっかく作ってくれたのに、とのラナの詰りに耐えきれずひとつ手に取ったファバル。
「まさか、あれほどの破壊力とはね」
のうのうとラナはいってのける。
ひょっとして全部予想がついていたんじゃ、とラクチェは思ったが、賢明にも口には出さなかった。そのままごろりと寝返りうって、草いきれに突っ伏す。
「ラクチェは災難だったわね」
まったくだ。
あの味に思いを馳せる。なにかがこみ上げてきそうだ。
「あとで、美味しいビスケット焼いてあげるから」
どこか機嫌を取るようなラナの言葉に。
幽かに頷き、けどまだ起きあがる力がわかず。ただただ寝そべり続けるラクチェだった。
えんど。
20020514
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