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「みんな夏のせい」
「暑い」
そういって、アーサーが執務机に伸びています。
書類やインク壺をちゃんと脇に除けているのは几帳面で偉いと思いますが、その情景はとても情けない。
腕まくりしているし。
足まくりもしているし。
執務机の影の隠れたところでたらいに水を張って素足を突っ込んでるし。
長い銀の髪だけは、来客があったらすぐ取り繕えるようにと綺麗に結わえていますが、それがかえってうっとうしさを増すのか、しきりに前髪を掻き上げたりしていました。が、今はそんな気力もない模様。
従兄殿の情けない姿に呆れるわたしですが、実際のところ今年の夏が例年よりも暑いことを認めるのは吝かではありません。
「暑いよリンダ」
訴えられても、なにも出来ることなんかない。
手にした書類を扇替わりにして扇ぐと、生温い空気が頬を撫でました。
グラン歴七八一年。
聖戦と呼ばれるあの戦いが終わって、皆がそれぞれの地にそれなりに収まってから二年と少し。
アグストリア統一戦争を最後に大きな戦火はなく、ロプトの残党は若干燻り続けているようですが概ね平和といってよい昨今です。
フリージ公爵位を継いだアーサーがフリージ公国の統治者になってからも、二年ちょっと。大きな禍に見舞われることもなく、そこそこ上手く国を治めていると、従妹の贔屓目ではなく思います。
反発するものも居ました。あるいは、保身のためにおもねるものも。フリージにはブルーム伯父様に仕えていた古参の臣下たちが数多く残っています。彼らからすれば、わたしたちは敵でした。
けど、今は味方です。
執務机の、少しでも冷たい部分を探しているのでしょう。アーサーの腕はじりじりと位置を変え、伸びきって机からはみ出た手の先がぶらぶらと空を掴みます。
やっかいな状況を、彼曰く適当にしていただけで好転させたアーサーは、これまた身内の贔屓目でなく、有能な人間なのだと思います。
フリージを体現するその容姿は領民に人気だし、気さくな性質は特に若い臣下に慕われます。未だ蔑む頭の固いものも居ないではないですが、旧体制派である彼らの勢力は非常に小さく、アーサーの地位は最早確固たるものです。
解放軍の英雄の一人、かつて領民に愛された破天荒な公女の息子、それに胡座をかくことなく驕らず善政を敷く若き公爵。
けど、本質は相変わらず。我が儘で気儘で甘ったれで、情けない姿をこうしてわたしに晒したりします。
気を許しているのだと思えば嬉しくもあるけど、やっぱりそれはどうなのかしら。
「あ゛ーつ゛ーい゛ー」
机に突っ伏したまま、くぐもった声で唸るアーサー。唸ったからといってどうにもならないのだけど、少しは気が紛れるのでしょう。
けど、わたしの気持ちはささくれ立ちます。
わたしだって快適なわけじゃないのです。仰ぐ書類から送られる温風とインクの香りが、結構いらいらを募らせるのです。
「煩いわ」
思い切り邪険にあしらってみました。
「だって暑いんだ」
「騒いだって余計暑くなるだけよ」
「でも暑いんだ」
頭がちゃんと働いていないみたいです。会話が全く噛み合いません。
ふう、とわたしが溜め息を付くと、アーサーはぶちぶちといいわけじみたことを呟き始めました。
「だってオレはシレジア育ちで暑さに弱いんだ。シレジアは涼しかったんだ。ああシレジアに帰りたい。
くそーイリオスじゃなくてオレがシレジアに行けばよかった。上手いこと避暑に行きやがって帰ってきたら見てろ」
なんだか不穏なことに。
一応、イリオスさんの名誉のために補足すると、避暑ではなく正式な使者として、フェトラさんと共に赴いているのですが。
貴族位につられてトラキア戦役に参加したイリオスさんですが、現在はフリージの重臣です。
――貴族になりたいならフリージでなれよ。取り潰された伯爵家だの男爵家だのごろごろしてんだから、好きなのやるぜ。
そんなふうにアーサーに勧誘され見事に釣られたんだ。そう、いつか悪びれもせずいわれたとき、アーサーがこの人を気に入った理由が解ったような気がしました。
優秀だけど、ひねくれていて、人望がない。
そしてフェトラさん。あるいはエリウさん、ヴァンパさん。
敗戦の将である彼女らを、新生フリージは臣下として迎え入れました。単純に人材不足だということもあるのですが、セリス様が積極的に打ち出している、「こちらに忠誠を誓うならば過去は問わない」の言葉が、盛大に後押しをしたのです。
偉大なる施政者の懐の深さが伺える方針ですが、アーサーにいわせると「人がいいんだよ」とのこと。どうなんでしょう。セリス様は、ちょっと怖い方のような気がするのだけど。アーサーの人物評価は適当すぎて信頼が置けません。
まあ、フェトラさんたちがフリージに来てくれたことがわたしは嬉しかったので。気にせず、喜んでおくことにしました。かつてフリージ王国の一員として暮らしていた頃、彼女たちはわたしやティニーに魔法を教えてくれたこともあったのです。
フェトラさんは風の魔法の研究のためシレジア行きを打診していたのですが、つい二月程前シレジア側より承諾の旨返答を頂くことが出来ました。
けどやはりかつては敵方の将。単身で向かわせるにはまだ時期尚早、なかなかに微妙です。そこで、イリオスさんを同行者としたのですが、この人選にはイリオスさんと親しい天馬騎士の存在が影響していたりしました。粋な計らいです。
それなのに、それを決めた本人と来たら。熱で頭をやられてしまったのね。まったく呆れてものもいえません、文字通り。
それで。ただ肩を竦め、無視することにしました。
アーサーはまだ唸っているようですが、真面目に取り合っても不毛なだけでしょう。
現在のわたしの役割は、アーサー付きの秘書といったところでしょうか。正式な役付けがあるわけではないのですが、公の席などアーサーは常にわたしを同席させるため、自ずとそのような役割を担っています。
今も書類を部署別部門別に仕分けていたところですが、この暑さで手がじっとりと汗ばみ、これ以上紙類を捌くのはごめんしたい心境でした。
ふと、視線を感じました。
そういえばアーサーは先程からずいぶん静かです。
なんだろう。顔を上げアーサーへ目をやると、彼はだらけたまま首だけ動かしてこちらを見ていました。
「なに?」
そう問うと、ちょいちょいと頭を降ります。
どうやら、こっちへ来いといっている模様です。
仕方ない。わたしは立ち上がって、彼の前まで移動しました。
「もう、どうしたっていうの」
責めるような口調は、わたしも暑さでいらついていたのでしょう。
けど彼はそんな態度は意に介さず、しばらくわたしを見上げていたかと思うと不意に手を伸ばし、わたしの二の腕を掴みました。
軽装だったため、素手の。
「……冷たい」
アーサーが呟きます。
怪訝そうに、わたしは首を傾げました。
わたしを掴む、アーサーの手の平は熱い。
熱いと感じるということは、わたしの二の腕はそれよりは冷たいということです。
けど、それが、なに。
わけが解らず戸惑っていると、アーサーは不意にわたしから手を離し、立ち上がりました。
足を突っ込んでいたたらいから水が零れ、絨毯をぬらします。
この気温だから、すぐ乾くと思うんだけど。ただの水だし。そんなことに気を逸らしていると、ぽつりと漏らす声が聞こえました。
「……そうか、気温より、体温の方が低いんだ」
手の平を見つめ、どこか無表情で。
そんなバカな。どんなに熱くたって、体温の方が熱いはず。多分、まだ。
否定の意で首を振りますが、顔を上げたアーサーの目は、据わっていました。
思わず、一歩後じさります。
「リンダ」
「なに」
一歩、アーサーが近づきました。
また一歩、わたしは下がります。
「リンダ、」
「だから」
なに、という言葉が途中で途切れました。
執務机のそばに設置されている、通称公爵のお昼寝用長椅子。それに、膝裏がぶつかります。
そのままかくんと、座り込み。その上にアーサーが覆い被さってきました。
わたしは思わず上体を反らし、勢いで長椅子に倒れます。
片手をわたしの脇に置いて、アーサーはわたしを見下ろしていました。
そして。
開いたもう片方の手でわたしの上着をまくり上げるや、むき出しになったお腹に顔を埋めました。
「……ああ冷たくて気持ちいい」
瞬間思い切り蹴り上げた膝が、いい感じに鳩尾にハマりました。
床に仰向けになって鳩尾をおさえるアーサーを放って、自分の机に戻りました。
ふと思いついて、上着の中に手を入れお腹に触れてみます。
じわっと汗ばんで、確かに冷たいかもしれません。けど、だからってアレは、ちょっと許せるものではない。
「うー、酷いよーリンダー……」
なんか声が聞こえないでもないですが、気を取り直して書類に向き直りました。
フェトラさんから、定期の報告書が届いています。
手に取ると、私信と書かれたわたし宛の封書。
近況を知らせてくれる手紙でしょう。多分また、エリウさん、ヴァンパさん宛のものが同封されているはずです。
後で渡しに行って来よう。そう思いながら、わたし宛となっているものを読み始めます。
――アミッドに会った、リンダに宜しくといっている。
そんな内容に、少し心が温かくなりました。
兄のアミッドは、現在シレジア王に仕える宮廷魔術師です。魔法を習いに行ったフェトラさんには、いろいろ便宜を図ってくれているようでした。
ありがたいな。
読み進めながら、未だ寝転がったままの公爵さまに声をかけます。
「フェトラさん、魔法の勉強、上手くいってるみたいよ」
すると。
アーサーは、またぶつぶつ呟き始めました。
「……魔法、そうか、魔法だ」
上体を起こして、こっちに向き直ります。
「魔法だよリンダ」
魔法? そう鸚鵡返しに聞き直すと、
「そうだ、魔法だ」
そういって立ち上がり、「魔法で涼しくすればいいんだよ」
「……ひょっとして、ウインドで扇ぐと涼しい、とか?」
一体この人はなにをいい出すんだろう。怪訝そうな色を隠さず伺いました。
「そんな安易な話じゃない」
ぴし! と指を立てたりして。
「……まさかと思うけど、ファイアーで炙った後は体感的に涼しい、とかバカなこといい出さないわよね」
ほんとにまさかなんだけど、念の為。
「それは流石にどうかと思うぞ」
否定の言葉が返ってきました。妙にはきはきしたいい方に、なんだかバカにされているような気分がしないでもありません。
「そうじゃなくてだな。温度を下げる魔法、そういうものがあるんじゃないかと思うんだ」
……本格的に、頭にキタのかしら。
ちょっと心配になってきたので。
「ねえアーサー、たらいの水に、氷を入れて貰いましょうか。氷室にあるのを分けて貰って」
「そうだ、氷だ」
わたしの気遣いはあっさり遮られ、
「ファイアーの呪文があるんだ、フリーズの呪文があったっていいだろう?」
――よく、わかりません。
「どうしてわたしも一緒に書庫へ行くの」
「いいだろ。せっかくだし」
なにがせっかくだかまったくわかりませんが。
低い山を作っていた書類たちを放り投げ、わたしはアーサーと地下書庫への階段を下りていました。
かつてのフリージ公国時代からそのまま、中を荒らされることなく持ち出されることなくそっくり遺されている地下書庫。フリージ公は代々知性派で知られていますが、その代々の当主たちが私費で買い倒した衒学趣味溢れる書籍の山が、この書庫には並んでいます。
魔術についての研究書があるかどうかは実際探してみなければ判りませんが、確かに地上の書庫――執務室の近くにあって、公式の文書や実用書などが納められています――よりは可能性が高いでしょう。
「フリーズそのものやそれに似た魔法がなくても、術式を編んで作れるはずなんだ。ファイアーの逆をやればいいだろ? けど、オレたちは魔法を理論じゃなく出来上がった道具として利用していて、術式の組み立て方そのものには全く無知だ。だからまず――」
蕩々と、なんだか学術的なことを話すアーサーは、先程のだらしない様子とは全く異なりとても楽しげです。
代々のフリージ公の類に漏れず、彼もこういったことが好きなのでしょう。
いつもこういう顔してればいいのに。だらっとした顔も、情けなくて好きだけど。
ところで。
階段室の扉を開けたとき、あまりの蒸し暑さに閉口したのですが。
地下2階にある書庫は、思いの外涼しい場所でした。
天井の高い大空間に、天井一杯の高さの書棚が並んでいます。どの棚も書物でぎっしり、或いは年代ものの巻物などが整然と並び、脚立がいくつか置いてあります。
先祖の道楽も、ここまで来ると壮観。
はぁっ、と感嘆の息を漏らし奥に進むと。閲覧のための場なのでしょう、大きな机とやけに座り心地のよさそうな立派な長椅子が、存在感を主張しています。
空気の澱んだ地下室、ランプに灯をともしての作業、かなりぞっとしないなと覚悟していたのですが。非常に快適そうで、正直、拍子抜けです。
「風が通らないから、ものすごく暑いと思ってたわ」
思わず呟くと、
「ああ、オレもそう思ってた」
なんか弾んだ声で、返答が帰ってきました。
「多分、日が差さないから、涼しいんだよ。あー、オレ夏はここで仕事しようかなあ」
「そんなこと出来るわけないじゃない」
「駄目かな? でもオレここに住みたい」
ここに寝っ転がったらぐっすり眠れそうだなあ、そんな益体もないことをいいながら、長椅子をぽんぽんと叩いています。
それじゃアーサーに用事のあるものは、いちいち地下二層分階段を下ってくるの? それはちょっと、皆に迷惑過ぎると思うんだけど。
けど本当に、涼しいです。おまけに、余り空気も埃臭くない。それどころか、少し風が通っているようです。
どこかに、通風口でもあるのかしら。視点を巡らしながら、フリージ城の見取り図を思い浮かべます――あ。
「ひょっとして、ここは内堀の近くなのかしら」
棚が並んでいない、石壁の面に近づきます。
「ん? ってことは、この壁の向こうは、水か?」
「わからないけど」
とんとん、と叩いてみます。なにか、反響している感じ。壁に耳を当てると、微かに、ごう、という音が聞こえました。けど、それが石壁越しの水の音なのか、それとも気のせいなのか、もしくは全く別物なのか、わたしには判断できません。
「まあいいじゃんか涼しいんだから。問題ないだろ。さ、研究書を探そうぜ」
確かに、その通り。
わたしは気持ちを切り替え、書棚の方へ向かいました。
そして。
あの後夜半まで書庫漁りをしてしまったわたしたちは、翌日あくびを噛み殺すのが大変でした。
あの場所に置かれた書籍たちはみな興味深いものばかりで、目当てのものと全く関係ない本をつい読み耽ってしまい、時間は瞬く間に過ぎてしまいます。
アーサーは流石に二、三冊ほどそれらしき本を見つけていましたが、
「まだ足りない。っていうか字が読めない。古書体過ぎてわけわからん」
と、内容とは裏腹に楽しげに述べていました。
「サンダーの術式をほどいて応用すると、水を呼ぶ魔法になると思うんだ。それにウインドの術式を組み合わせて、温度を落として凍らせるってことが出来ないかな」
どう思う? と問われて。
ちょっと、付いていけない自分が不甲斐なく思えたりしました。アーサーは、実は、凄い人なのかも知れない。そう、感動してしまったりも、しました。
ああ一人じゃ限界があるな、専門の研究チームを作ろうか。いや、研究施設を作って本格的に。
そんな、展望まで述べています。
幸い我が公国には雷、火、風と異なった魔法のエキスパートが揃っている上、その一人は更に腕を磨くため外つ国に留学中。
「こうれはもう作るしかないよな、研究所」
目を輝かすアーサーに、うんうんと頷いてしまったのは。
やっぱりわたしも、暑さにうんざりしていたのです。
あれからアーサーは、結局書庫に籠もりきり。
わたしに全権委任して――といっても、彼の決裁がいるものは毎昼まとめて持参して判断を仰いでいますが――涼しい書庫で興味深い書物を次々と読み倒しています。
今では書庫に寝床を作り、今日は朝から顔も見ていません。
後で朝食兼昼食でも持っていってあげよう。厨房に頼んで、なにか作ってもらわなくっちゃ。
わたしはといえば、執務室は暑いのですが完全な無人にする訳にもいきませんし、実は薄暗いところはそんなに好きではないので、いかな涼しい地下書庫といえど一日籠もるのはなかなか辛いです。
それでやや快適な朝や夕は執務室で過ごし、暑さが最高に達する昼は食事と書類を運びがてら書庫で過ごす。そんな毎日になっています。
書記官が持ってきた書類の束の中に、セリスさまからの書簡が入っていました。フリージ公宛、となっているので封を切ります。
今日も暑いです。真夏絶好調。
セリス様の手紙の概要はこうでした。
――フリージ公国に魔法の研究施設の建設を希望する件、概ね了承した。細かい点については直に打ち合わせをしたいので、都合のいい時期を指定して欲しい。
ところで、「というわけで魔法の平和利用のための研究をする施設が必要云々」とあったが「というわけで」以前の文書がない。なにかの手違いであろうか。
アーサーの、バカ。
――みんな夏のせいよ。
わたしはそう呟き。
要決裁の束の一番上に、その手紙をぽんと載せたのでした。
えんど
20060823
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