ORIGINAL TOP
「おいしい水」
彼とはやけに目が合った。
きっかけはわからない。
気づいたら、彼はよく目が合う人だという認識になっていて、いつか笑い合うようになっていた。
あるとき手を振ってみた。
向こうも振り替えしてきた。
おう、と挨拶され、おはよ、と返した。
今帰りなの、と声をかけて、そのまま自転車で駅まで送ってもらった。
わたしはそこから電車で二駅。
彼は自転車であと五分。
近くていいねえ、というと、いいだろう、と返ってくる。
しれっという様にちょっとムカついて軽くケリを入れると、おまえ乗せてやったのにその仕打ちか、と反撃とばかりに軽くこづかれた。
そんなふうにして、わたしたちは知り合った。
夕暮れの美術室というのは、差し込む夕日の長さと色が暖色の陰影を作り美術的だ美術室なだけに。
オヤジギャグに似て非なるギャグになっていない戯れ言を独りごち、わたしは油壺に筆をつっこんだ。
油で薄くのばされた絵の具がカンバスに重ねられる。緑から橙へ伸びる色彩。微妙な濃淡が、景色をぼんやりと浮かび上がらせている。その画風はさながら透明水彩のそれであり。画材に油絵の具を使う意味を、真綿で締め上げやわやわと問いつめたい。
だって油絵の具は高いんだもの。
自答して、情けなさにちょっとがっくりした。
うちの美術部というのは文化部の中では人数も多いし、部室がない代わりに美術室と準備室が使い放題で(除く授業使用時)恵まれている方だと思う。
しかし、顧問(イブサンローランの絵のカレンダーをもらった、と曰った数学教師だ。それはひょっとしてローランサンでは、とつっこんだ部長の表情は今でも忘れられない)の方針が「生徒の自主性を重んじる」なためか、そして決まった部活日というものが特にないためか、幽霊部員率が高値安定で放課後の美術室の人口密度は概ね薄い。普通校平日の文化部なんてのはおしなべてそんなもんかも知れないが。
今日は試験間近というのもあって、人口密度は史上第二位の低さを記録した。要するにわたし一人ってことで、第一位はゼロだ。ふと、素朴な疑問。人口密度の記録ってゼロをカウントするのだろうか。
まあ、それはどうでもいい。
薄めてなお減りの早い緑色をパレットに足し、筆の先にちんみり付けカンバスに伸ばす。
一度でいいからパレットナイフで豪快に塗ってみたいものだなあ、などと画風と一八〇度異なる願望を切に願いつつ。カンバス生地を最大に生かしたタッチで、淡い緑が広がった。ものはいいよう。
ふあ、と欠伸を一つすると、目に涙が浮かんだ。
わたしは涙腺が弱い。欠伸で涙が出るのは割と普通だが、調子によってはそれが零れる。はたして今回は、目尻で止まった。よし。
常備品の箱ティッシュをから一枚もらって目尻を拭いた。涙というのは結構やっかいで、零れて頬を伝うと肌が荒れるのだ。所詮塩水だし。
そんなことをやっていたら。
アルミの引き戸がからりと軽い音を立て、横移動するのが見えた。見知った顔が覗き込む。わたしの様子に目聡く気づき、あ、と声を上げた。
「涙」
「涙」
「拭いちまったん」
「拭いちまったよ」
「く、遅かったか」
「ばーか」
彼はがっかり感をアピールするかの如く、わざとらしく肩を落として入ってくる。「あと一分早ければ」そんなことをいって、画材の散乱する机に手をついた。
「おおばか」
アホの子を見るような眼差しを向けてやった。
仲よくなってから知ったのだが、彼は割と変態だ。
涙を集めて飲み干すのが夢なのだという。ビールジョッキになみなみと表面張力も張らんばかりの。
初めてその言葉を聞いたとき、余りの阿呆らしさに、それ程の量の涙を集めるのは大変だね、と素で答えてしまった。それに対して、困難じゃない夢なんかない、と清々しくいわれた日には、ちょっとだけ感動なんかもしてしまった。
どうかしている。
それ以来涙腺が弱いわたしはいい標的だ。油断すると、飲ませて、とかいわれる。いいわけあるかと一蹴すると、減るもんじゃあるまいし、とぶちぶち文句をいった。いや減るから、確実に。
アホの子の彼はうなだれるのに飽きたのか、顔を上げ背筋を伸ばした。んー、とか割とかわいい掛け声つきで。そのままぐるっと首なんか回したりして、いきなり柔軟運動。首の後ろに手を回して肩だか首だかのストレッチをしながら、彼はいった。
「さすがに今日は人いねぇんな」
「まあ、試験前だし」
改めて確認するまでもなく。
「つかなんでお前いんのよ」
「それは鏡を見ればわかると思うよ」
しかし彼はわたしのまっとうなつっこみには応えず、
「油くせー、酔いそう。よくお前平気だな」
ぶちぶち文句をいい出す。
まあいい。いちいち引っかかることなく新しい話題に乗ってあげるのが大人ってもんだろう多分。
「そんなに臭い?」
「臭い。よくお前平気だな」
「慣れ」
「慣れんのか」
「慣れんのよ。いいにおいじゃない」
「変態」
がーん。変態にいわれてしまった。
「あんたにだけは、いわれたくない」
ショックを隠しきれず、よろよろと反論する。確かにな、と彼は苦笑し、窓際へ移動した。
「?」
「換気」
窓に手をかける。
「え、寒い」
「寒いかよ」
「寒いよ寒いよシベリア並みだよ」
「嘘つけ爽やかな秋風だろが。寒いいうな」
「爽やかだろうがじめやかだろうが寒いもんは寒いよ」
「なんだじめやかって」
「ジメジメしているさま、爽やかの反対語」
「そんなら爽やかはサワサワしてるさまか。キショイわ」
「をや?」
「わざとらしく首傾げんな。俺はお前の国語の成績がとても心配ですがどうなんよ」
「大丈夫。まだ赤点は取ってない」
「それは大丈夫とはいわない」
呆れたようにため息をつき、彼は窓を全開にする。
冷たい秋風が、生温かった美術室の空気を吹き流した。まあ、空気が澱んでいたことは否定はしないけど。
「寒いよ」
「上着着ればいいだろ」
ちなみにわたしはブラウス、スカート、加えてエプロンな出で立ちだ。
「汚れるから嫌。さむいー」
「うるせ」
一言の元に切り捨て。
手近な椅子を引きずって、イーゼル越しの向かいに座った。
カンバスに目を戻す。
もう少し、緑を。
筆に絵の具をふくませぺたりと置く。カンバスの上で広げた緑とまだ乾いていない先にあった黄色が混ざり、布目柄のいびつなグラデーションを作った。――本気で、水彩画への転向を考えた方がいいような気がしてくる。絵の具を捨てよ、町へ行こう。水彩絵の具を買いに。
油絵にこだわる理由は特にない。そこに画材があったからだ。けど描き始めて、絵の具とは消耗品であり且つ高価で減りも恐ろしく早い、と気づいた。遅い。遅すぎる。
まあいい。
取りあえず、目の前にある全てのチューブが空になるまでは続けよう。半年くらい前もそんなことを決意したような気がするし、半年後に同じことを考えている可能性はかなり高いが。
そんなことをぼんやり考えながらカンバスを眺めていたら、ぺりぺり、という音が耳に入った。
顔を上げる。
向かいに座る彼が、ぼんやり頬杖をついて雑誌を繰っている。ぺりぺりは、薄いグラビアをはがす音だ。静電気で貼りついているんだろう。結構乾燥してるんだろうか、それとも紙質の問題か。
ぼんやりと見ていたら、視線に気づいたのか彼も顔を上げた。
「静電気?」
せっかくなので、尋ねる。
彼はわたしの質問に一瞬考え込み、雑誌に目を落とし合点がいったように頷いた。
「頁がくっついて剥がれねえんよ」
「最近乾燥するしねー」
「いや、こいつはいつもなんだけど」
いつも静電気の雑誌。なんだそりゃ。
「雑誌じゃなくて、あんたが静電気体質だからじゃないの?」
「どんな静電気体質よ。雑誌に影響及ぼすほど帯電してたら生きてねーだろ」
「人体の驚異」
「だから帯電してねって」
やれやれといいたげに肩をすくめ、ため息なんかついて見せる。
「でも花火散ったって聞いたよ」
去年の冬だか。体育の授業前、上着の下にもこもこ着込んだセーターを脱ぐとき。それはもう綺麗なラインが走ったという。雷の如く。
「いやまて花火ってなんだ火花だろ」
ありー。
「そうともいう」
「そうとしかいわね」
「いいじゃん字面はあってるし」
「順番が逆じゃねえか」
いちいちつっこみが厳しいな。
むー、と唸って天井を仰ぐ。肩と首がこっていたのか、ちょっと気持ちいい。そのままぐるぐる首を回す。そのまま絵筆を置いて、ついでに背筋でも伸ばそうかと立ち上がったところ。
「いっくしっ」
冷えた風が体を掠め、思わずくしゃみがひとつでた。
「風邪か」
「寒いんだよ」
窓閉めろー、そう唸る。しゃあねえな。彼はいかにも渋々と立ち上ろうとし、ふと思い出したように鞄に手を伸ばした。
「なんか飲む」
ジュース買ってきてたんよ、今思い出した。そういって鞄をごそごそと。
「なにあんの」
「おしること豆乳」
「…………、豆乳」
「なんだと、じゃあお前は俺にこの冷えたおしるこを飲めと」
「なら買うなよ」
「いや缶しるこ美味いし」
「……自業自得っていい言葉だよね」
放り投げられた豆乳の紙パックをキャッチ、ストローを刺してちるちる啜る。あー、意外といけるかもしれない。
缶しるこを開けたバカは一口飲んで呻いた。「うあ、のどに引っかかる」
もうため息しか出ま、「っくしっ」、くしゃみ一つ追加。
「うう余計身体冷えてきた」
「おお、窓忘れてた」
彼は今度こそ立ち上がり窓際に向かう。ふと、上着を脱いでわたしに投げた。
「着てろ」
「汚れるよ」
エプロンでカバーしきれない、実にカラフルなブラウスの袖口をアピール。
「構わん」
「油絵の具だよ。落ちないよ」
「あと半年も着ねーし」
「そういう問題かな」
苦笑しつつ、ありがたく借りる。残る体温があったかい。袖がかなり余ったので、くるくる捲った。男の子だからな、そんなに変わらないような気がしても、わたしより大きいのだ。
「あー暖か」
「おう。優しさが心に沁みるだろ」
「沁みた沁みたじわじわ沁みた」
「惚れたか」
「うんうんすっげー惚れる豆乳三日分くらい」
「微妙だな」
「精一杯の感謝なのに」
「涙一杯の方が俺的には嬉しいぞ」
「そこまでは感謝してない」
「ケチ」
ケチという次元か。
そして激しく疑問なのだけど、コップ一杯の涙を溜めるためにわたしはどれだけ泣けばいいのだろう。コップ一杯といえばおよそ二〇〇cc。一滴は確か〇.一〜〇.三cc。だから、少なく見積もっても六六六滴ばかり流さなければならない計算になる。おいそれと溜まる量ではないと思うのは気のせいか。ついでに関係ないけど獣の数字。
「んじゃ舐めさせて。五、六滴でいいから」
五、六滴ならいいかと一瞬だけよろめいた。六六六滴のインパクトが強くて。ぐぐっと堪える。
「イヤ」
「えー、精一杯の譲歩なのにい」
「にい、じゃない」
だいたい犬猫じゃあるまいし、舐めるて。やっぱしこの変態とはちゃんと話を付けんといかんようだな。
「残念」とかぼやきながら、彼は今度こそ窓際に移動。窓を閉め、きちんと施錠なんかもしてカーテンを引いた。
ふう。わたしは息をついて再び筆をとる。
紙パレット上の少ない絵の具をぐにぐにと混ぜ、混ぜ混ぜ混ぜ混ぜ、汚いマーブル模様を作った。
今日はもう止めよう。
洗筆油に筆をつっこむ。半透明だったそれは、浮き上がった沈殿した絵の具によって緑がかった灰色に濁った。筆を拭いて箱に仕舞い、絵の具のついた紙パレットを一枚剥がして折り畳みゴミ箱に入れる。
「止めんの」
「うん、今日の部は終了」
ふうん、と頷いて、彼はカンバスの前に立つ。なに描いてんだかさっぱりわかんねえ、と大層失礼なことをほざいた。
「んで、いつ完成すんの」
「わかんない」
「んでもずいぶん前から描いてね」
「うん。いまだかつてないくらいだらだらと描いてる」
「……ひょっとして俺邪魔しい?」
「邪魔じゃないよ。これはだらだら描く絵だから」
「んならいいんだけど」
なにがいいんだろう。それより、
「あんたは退屈じゃないの」
「なんで」
なんでって。しゃべるでなく、なにするでなく、だらだらと雑誌めくったりぼんやりしたり、いかにも暇そうだったじゃない。
「あー、俺だらだらしてんの好きだし」
知ってるけど。
「絵の具のにおいも嫌いじゃないし」
換気換気騒いでたくせに。
「お前の顔見んのも好きだし」
ありがと。
「つかお前のこと好きだし」
あ、そ。――え?
突然の言葉に、わたしは動揺する。「え」と顔を強張らせ固まっていると、両の手が彼のそれに軽く包まれた。思ったより大きく、温かく。流石にどきどきしながら見上げると。
彼はにこやかに笑って軽やかにいった。
「というわけで俺達つきあおう。ほんでキスしてえっちぃことしたら、涙舐めさせて」
「結局それかー!」
わたしの右ストレートが、いい感じにきまった。
彼女はぷんすかとわかりやすく肩を怒らせて歩く。
その隣で俺は、自転車を引きながら歩く。
彼女は手ぶらで、荷物はといえば自転車のカゴの中だ。結構ちゃっかりしている。つまり見た目ほど怒っては居ない。
結局あんたわたしの涙目当てなのよね、と非常に味わい深い言葉でねちねち詰られたわけだけが、涙「が」目当てじゃなくて涙「も」目当てなんだと正直に述べたら今度は平手が飛んできた。
流石にそれはひょいと避け、だから本気で好きだし本気でつきあいたいし本気でキスしたいし本気で、としつこい程に本気ぷりをアピールする。すると、わかったわかったと途中で遮られた。赤面して。
こんなの好きになるやつの気が知れないのに。うー、と彼女は唸る。
悔しげにふくれるのがとても可愛い。悔しくて、じわっと目が潤むのがたまらない。
それは本当に綺麗で美味しそうで、なんつうかいろいろな意味でそそられる。
涙腺が弱いのは卑怯だよな、と俺は思う。
しょっちゅう潤んでるわけよ、目が。
そんで、たまに零れたりすんのよ、涙が。
卑怯だよな。
全く。
駅に着くと、彼女ははふうとわざとらしくため息を吐いて立ち止まる。
明日も美術室にいるん? と訊くと、試験当日以外は居るよ、と答えが返ってきた。
それからすうと息を吸って、
「手順はちゃんと踏んでよね、バカ」
そういって、彼女はダッシュで駅舎に駆け込んだ。
20051111
original top