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「かもなべなのかも」



 彼女はジャージに白衣の化学の先生。



 テスト休み期間で放課後校舎は閑散。
 なのにのんのんと実習棟へ至る渡り廊下を歩いている俺はといえば、チューリップを仕込むのよ! との号令に招集された哀愁の園芸部員だ。
 素っ頓狂な部長にはいい加減慣れたが、テスト前日ってのは微妙に勘弁してほしい。
 だいたい球根を植える時期なんぞ一週間やそこらずれたって問題はないのだが、あえて今日やるってのは現実逃避以外のなにものでもない。
 だから、すっぽかしゃいいだろ、という級友の声はごもっとも。
 しかし部長は腐れ縁の幼なじみで家が隣だ。サボろうものなら夕食時にでも強襲され、ちゃっかり夕飯を食いながらねちねちねちねち詰られるに決まっている。
 はーあ、とため息を一つつくと、校庭の方からわずかな喧噪が耳にはいる。
 見覚えがある二名程が、サッカーゴールの辺りで白黒ツートンの物体を追いかけていた。
 もう一つため息。本当にもう、バカばっかりだ。

 化学実験室は実習棟の一階。物理実験室と隣り合って、普段は結構にぎやかだ。彼方地学部のたまり場、此方園芸部のたまり場、更に突き当たりの標本室は生物部のたまり場とあって、またの名を魔の理系部三角地帯、一般人が迷い込んだら無事に戻って来れないこともないといわれる魔境だ。割としょうもない。
 一つ疑問があるとすれば、はたして園芸部は理系部といっていいのかということ。ある時そんな疑問を発したら、生物部から分離独立したからいいのよ、と顧問の化学教師がいった。
 化学実験室に入ると、まだ誰も来ていなかった。
 まあ予想は出来たことなのだが、恐らくどれだけ待とうとも後一名しか来まい。それはいい出しっぺの園芸部長で、他の部員どもはもれなくサボりだ。賢明といえる。
 出来れば俺もサボりたかったよ、と窓の向こうを見上げれば、晴れ渡った秋空は絶好の園芸日和。
 引退が遅い傾向にある文化部だが、冬休み前にはほぼ全ての最高学年生は部活動を終了する。だから、部長が部長でってこうやって酔狂に巻き込まれるのは、もうあと何回もないだろう。腐れ縁は続くが、こんな風に現実逃避に付き合わされため息をつくのはもしかしたらこれが最後かも知れない。
 だからまあ、しょうがない。というか、そうとでも思っていないとやってられない。
 しかし遅いな、といまだ人口一人の実験室の戸を軽く睨む。
 すると。
 念でも通じたかのように戸が開き、しかし予想外の人物が現れた。意表をつく様相で。
 ジャージの上に白衣を羽織った化学教師は、鴨を腕に抱えべそべそと泣いていた。



 テスト前だから部活は休みだよ、と彼女はいった。かなり聞きづらい涙声。字面にするならこんな感じか。
「でずどばえ、だばら、っ、ぶがづば、あずび、だ、よ」
 それからちょっと首を傾げ、納得したように君も大変だね、と頷く。
 なんで俺がここに居るかを察したのだ。それ程に、部長に俺が振り回されている事実は周囲に浸透している。そんなもん浸透しないで欲しかったが。
 それよりも。
 気になるのは鴨だ。見覚えある茶色い羽毛。あれは確か、合鴨農法をするよ、との口実に飼っている我が部のペットではないだろうか。鴨壱号から陸号まで六羽いる内の一羽。鴨の区別などつかないから何号かはわからないが、この学校に他に鴨は居ない。

 鴨弐号が死んじゃったよ。

 先生がぽつりと漏らす。そしてまた、えぐえぐとしゃくり上げる。
 彼女には区別が付いているようだった。
 死んだんですか、と鸚鵡返しに聞き返すと、うん、と頷いて鴨を撫でた。
 ――こんな状況で、俺はなにかをいうべきなのかするべきなのか。
 慰めるにも空々しい言葉しか浮かばず、ただ戸惑うしかない。鴨は可愛かったし死んだのは残念だが、泣くほど悲しいとは思えないのだ。
 なら、なにもしない方がいいか。
 結局そこに行き着いた俺は、そのまま居心地悪い沈黙に身を置いた。
 しかし、こう泣かれると自分がとても冷たい人間のような気がしてくるなあ。非常に居たたまれない空気だ。これというのも、部長がまだ来ないからだ。ちくしょういい出しっぺのくせに遅刻しやがって。八つ当たり気味に、幼馴染みを心の中で罵ってみたりして。
 ずるずると鼻を啜るのが聞こえたので、その辺にあった箱ティッシュを差し出した。あじがど、とお礼と共に手が伸びる。鴨を腕に抱えたまま、非常にやり辛そうに鼻をかみ。ずびー。

 若い女教師、という言葉に夢を持っていた時代が俺にも人並みにあったのだけど、彼女を前に霧散したのも今ではいい思い出だよな、とちょっとやるせない気持ちで眺めてみたり。
 化学教師な彼女はジャージに白衣という身も蓋もないファッションながら小綺麗にはしているし、一部に物好きなファンがつくのを不審に思わないくらいには可愛いと思う。しかし「女教師」という言葉から期待される「色気」というものがなんつうか全くない。全体的に小作りで童顔、と見た目も色気には程遠いのだが、寧ろ問題はその言動だ。学舎になにを求めているのだお前は、という突っ込みは置いておくとして。

 濁点ばかりの音はやがてすんすんと鼻を鳴らすに変わり、はあっという吐息と共に終了した。
「よし、泣くの終わり」
 思わず怪訝そうな表情になる俺に、えへ、と笑ってみせる。本当に、可愛いんだけどな。
 しかしその後続いた言葉には、ちょっといやかなり度肝を抜かれた。

「このこ生物部に解剖してもらって死因見てもらわないとね。そんで異常死じゃなかったら、みんなで食べようね」

 ええええええ。



 聞き間違いかと耳を疑う俺をよそに、彼女は鴨弐号を作業台に置いた。
 羽に頭を差し込んだまま固まったそれを優しげに撫で、それから「クーラーバックどこだっけかなあ」と呟く。

 鴨鴨鴨鍋鴨鍋〜。

 調子っ外れの鼻歌を歌いながら備品棚へ移動。確かこの辺に畳んでしまっておいたはず、とかいいながらごそごそやり出した。
 なんとなくただ突っ立っているのも手持ちぶさたで。或いは関わりたくはない気持ちより怖いもの見たさが凌駕したのかも知れない。俺はつい、突っ込みを入れてしまった。
「クーラーバックをどうするんですか」
「鴨弐号を入れておこうかと思って。腐っちゃうと困るもんね。保冷剤もあったよね。冷凍庫に入ってるはずだから、悪いけど出しておいてもらえるかなあ」
 ちなみに冷凍庫は実験室の備品だ。夏場はアイスがよく入っている。ビーカーで作ったゼリーが凍っていることもある。犯人は彼女か、稀に部長だ。
「腐ったら解剖するの大変だし、食べるのもちょっと嫌でしょ。それじゃ可哀想だもんね」
 整理が成っていない備品棚をがたがたひっくり返しながら、先生は続ける。
 いや、腐らずとも食べるのは複雑ですが。俺は力無く反論する。
 というか本気で喰うのか。こいつを。鴨弐号を。気を遣って頂いて申し訳ないが、それはちょっと、ティーンエイジャーには酷じゃないかな。
 すると彼女は、なんのこと、と振り返った。やっと発見したクーラーバックの埃を叩きながら。
 いやだから、とこっちは冷凍庫から保冷剤――どう見ても一〇〇円均一で買ったっぽいちゃちいやつを二つばかり取り出し。なんとなく鴨弐号の背中に乗せてみたりして。
 先生は俺の言葉に首を傾げる。少しばかりの逡巡の後、ああ違うよ、といった。
「ちゃんと食べてあげられないと、鴨弐号が可哀想でしょ、ってこと」
 俺は相当に驚いた表情で彼女を凝視したんだろうと思う。
 そして彼女も、自分の言動があまり常識的ではないという自覚はあったのかも知れない。
「ええとね」
 いいわけめいた口調で、彼女は語り出した。「質量保存の法則って、あるでしょ」



 化学変化の前後で全体の質量は変化しない。
 ラボアジェが提唱した化学における保存則だ。中学の頃にアンモニアの生成実験で検証したのは結構しっかり覚えている。

 で、それがなにか。
「ロマンだよね」
 俺の疑問を意に介すことなく、彼女は気持ちうっとりと続ける。
「わたしね、質量保存の法則が大好きだから、この道に進んだのよ」
 クーラーバックは大して汚れていなかったようで、乾拭きすればいいかな、と台拭きを手に取り。「使いっぱなしで黴びてるときもあるからねえ」そういって、中を拭きだす。
「それでね」
 手を止めることなく。
「鴨弐号は何グラムかの肉塊になって、おいしく頂けば君達のお肉になる。鴨弐号の質量は君達の質量に加わって、君達の体重は鴨弐号分増える。食べることによって、君達の中に鴨弐号は保存されるの。化学的だね。そうして君達がある限り、鴨弐号は共に生きていけるのよ。だから食べてあげないと可哀想なの」
 わかった? と俺を見上げて。

 一瞬納得しかけ、しかし、ボタンを掛け違えたのに裾がぴったり合ったような、妙な違和感に襲われる。
 ――というかそれは化学ではなく、アミニズムとかそっちの方で解される問題のような気がするのだが。
 「食人族が人を食べるのは、その人の能力や記憶を手に入れるためだ」という話を読んだことがあるが、あれは地理のレポート用に集めた資料になぜか混ざっていた、民俗学関係の本だった。

「まあ嘘なんだけど」
 俺は軽くずっこける。
「いいリアクションだなあ」
 妙に嬉しそうに一頻り笑い。先生は鴨弐号を優しい手つきで持ち上げると、クーラーバックに詰めた。あつらえたようにぴったり、と呟き、保冷剤に手を伸ばす。
「嘘って先生」
「あのね、」鴨弐号の上に保冷剤を並べながら、「鴨弐号は家畜なんだよ。だからちゃんと食べてあげなくちゃダメなの。それが鴨弐号のレーゾンデートルなのよ」
 蓋をしてチャックを締めて、ぽんぽんと蓋を叩く。じゃあね、鴨弐号。
 ふにゃっと、緩んだ表情で。

 ――その、シビアな言葉と間の抜けた笑顔のギャップに。ときめいてしまったちょっとだけ不覚にも。ちくしょう。

「存在意義ですか」
 己を誤魔化すように、応答を続けるが。
「うん、そうなの」
 よくできました、とでもいいそうな口調で。

「それに美味しいしね、鴨鍋」

 ……結構感心していたのに、そのオチか。
 俺はかなり脱力して、はあっとため息を吐いた。今日はやけにため息を吐く日だな、と考えながら。



「鍋すんの? だったらうちのカセットコンロ提供するよ」
 突然ひょいと、窓からサッカー部元部長が口を出した。組んだ腕を窓枠に置き、そこに顎を載っけた格好で。
 さっきまでゴール付近を走り回ってたような気がするんだが、いつの間に来たんだろうかこの人は。
 相方はどうしたんですかと一応訊いてみると、図書室行っちゃったんよ冷たい後輩だよね、と軽くぼやき。
「カセットコンロね、合宿ンときに使ったやつまだガスが余ってるんだ」
 だから遠慮なく使って。そんかわし、俺もまぜてね。
 にこにこと、彼とは級友である園芸部長曰く、ワンコのような笑顔で。
 犬の笑顔ってどんなよ、と突っ込んだら、ニュアンスの読みとれない男は嫌だね、とわけのわからない反論が返ってきたっけ。彼女の基本はボケで、俺の基本はツッコミだ。
「それ部の備品じゃ。いいんですか、あんた引退した身でしょう」
 俺のもっともな疑問には、
「OB会費で買ってるからいいんだよ。来年から俺も払うし」
 と、筋が通ってるんだか通ってないんだか判断つきかねる答えが返ってきた。
 体育会系はこれだから。いや、関係ないか。
 それはともかくワンコな先輩に、先生はじゃあまた甘えさせて貰おうかなと曰った。また、て。
 ワンコと先生は二人して、
「前回はちょうど夏合宿中でね」
「人数多かったから買い出しに行って」
「バカな1年が牛肉買ってくるからもうなにがなんだか」
 いやなにがなんだかはあんたらだって。俺はもうドン引きだ。
「ってか前回って」
「鴨伍号」
「じゃあ今居る鴨伍号は」
「二代目だよ」
 うわ、全然気付かなかった。
「ところで先生、その鴨生物部ンとこの冷凍庫に入れとけばいいんじゃないの。部長にいっとけば、試験終了即解剖開始よ」

 ちなみに生物部室とは正式名称を標本室。鴨の一羽や二羽冷凍庫に入っていたとて誰も驚かない我が校のトワイライトゾーンだ。そこに巣喰う生物部長は、代々「アナトミ男」の称号を襲名するという。
 どんな生物部か。しかも安易且つ嫌すぎるネーミング。
 部長が女だったの場合どうなるのかといえば、「アナトミ子」だそうだ。どうにかして欲しいこのセンス。全く、園芸部が分離独立したのもわかるって話だ。

 成る程、と。先生は両の手をぱちんと合わせた。
「それもそうだねえ。じゃあ置いてくるよ」
 流石経験者は違うね、と――一体なんの経験者なのか――感心したように彼女は頷き、クーラーバックを肩に掛ける。
 えらい? と得意そうなワンコの頭を、「うん、えらいえらい」と撫でて。
 じゃああとよろしく、といっった次の瞬間にはもう戸口。日時は追って連絡するからねえ、とふりふり手を振り。取ってつけたように、試験前なんだから君たち早く帰んなきゃだめだよ、とつけ加えて。白衣をひらりと翻して、標本室方面に消えていった。

 後に残されたのは、サッカー部元部長と俺。
 呑気に手を振り返していた元部長は、先生の姿が見えなくなると俺に向き直る。
「可愛いだろ、先生」
 なぜか自慢するような口調で脳天気に笑顔全開。
 しかしてその台詞は、非常に肯定したくない。否定はできないんだが、肯定したら負けのような気がする。なにに負けるのかはわからないが。
 つか、「可愛い」って、そんな言葉だけで済ませていいタマなんだろうかアレは。
 非常に複雑な心持ちで曖昧に首を傾げていると、
「惚れる?」
「それはないです」
 即座に返答略して即答。不覚にもときめいたりしたけど、なんというか、それは無理です俺には無理です。
「うん、惚れちゃだめだよ。あれは俺のだかんね」
 ワンコ先輩が不敵に曰う。
「俺の、て」
 まあまだ予定なんだけど、と軽く肩を竦め、「全力で口説いてる最中なんだけど、在校中はだめなんだって」
 意外と堅いよね。まあそこもいいんだけどさ。と、へらっと笑い。ああもうこれは惚気だな、惚気。
「じゃあ今も口説きに来てたんですか」
 邪魔して悪かったですね、と心にもないことを口にすると。
「あーそうだ。伝言を預かってきたんよ」
 そういって、俺を指さす。
「俺に?」
「うん。お前の園芸部長な」
 そういやまだ来てなかったな、遅刻にも程があるぞあんにゃろう。
 傍若無人な幼なじみに思いをはせつつ、一応のお約束、
「誰が俺のですか誰が」
「違うの」
「……違ったらよかったのになあと、今日しみじみ思いましたが」
「あはは」
「それで」
 部長がどうかしたのか、と先を促すと。
「教室からここへ爆走中滑って転んで保健室行きになったんよ」
「ええ?」
「激しく擦りむいて半泣きだったから行ってやれ」
「それは真っ先に教えて下さい」
 全く爆走するなよ廊下を。転ぶなよ滑って。ああもうなんだってどいつもこいつも。俺より年上のくせに、なあ。
 わりーわりー先生に目が眩んでさ、とのいい訳にため息一つ。
 戸締まりはしといてやるから早く行け、と笑うワンコな体育会系先輩に軽く頭を下げ。
 保健室へ向かうべく、俺は実験室を後にしたのだった。


20051222


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