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例えば学園もののギャルゲーだ。ベタなラブコメ少年漫画風。
一戸建てに一人暮らしの主人公。親が仕事で海外に、とかそんな感じ。
隣には同じ年頃の子を持つ家族が住んでいて、家族ぐるみのおつきあいをしている。
幼馴染みは毎朝主人公を起こしに行ったり、食事を持っていったり洗濯や布団干しなんかもしたりして、いやそこまではしていないか? まあとにかく、そんな感じにかいがいしく、主人公の面倒を見たりする。
非常にありがちなギャルゲーだ。
「たまごタマゴたまご」
あくび一つ噛み殺しながら、フライパンの火を止めた。いい色に焼けたプレーンオムレツを皿に移す。
ご飯みそ汁卵焼き。絵に描いたような朝食だ。
さて。
「そろそろ起こしてくるか」
エプロンを外して玄関へ。外履きの健康サンダルを引っかけ、ドアを開けた。
そこからほんの、数十歩。うちとよく似た玄関扉の前に立ち、ピンポーンと呼び鈴を鳴らす。応えはない。
ポケットから鍵を出し、開ける。ついでに新聞を回収。今日はチラシが多く、なかなか分厚い。それを下足入れの上にぽんと置き捨て、真っ直ぐ階段を上った。二つ並んだ扉の、右手の方に立つ。こんこん。応えはない。
毎日のことなので、今更呆れることもない。ノブを回し、カーテンが朝日を遮る薄暗い部屋へ入った。
「みー姉、朝だよ」
いいながら、カーテンを開ける。朝日が、ベッドの上の布団の小山をてらした。
「みー姉」
んん、と声を上げ、小山の中身がますます布団に潜る。
「もうすぐ8時」
潜りきれず零れた黒髪が揺れる。
布団と、毛布と、かいまきと。一体何枚掛けてんだこの女、と思いつつ掴み、思い切り剥いだ。さーむーいー、と、それでもまだ丸まるパジャマ姿のみー姉が、恨めしそうに俺を見上げた。
絵に描いたようなギャルゲー環境なのに配役が逆じゃねえか。
そんなアホなツッコミを入れられたのは一昨年前のことで、俺はまだいたいけな高校生だった。今も高校生だしいたいけだが、それはどうでもいい。
隣人であり幼馴染みでもあるみー姉は、父子家庭で父親が留守がちという環境からうちにべったり依存している女子大生だ。物心着いた頃には彼女を起こしに行くのが俺の日課で、うちが母子家庭になって母が看護士の仕事に復帰し、俺が家事全般を担当することになってからは、ご飯を食べさせるのも俺の仕事だった。
そのシチュエーションでなんで家事がお前の仕事よ、ってのが友人の弁だ。隣のお姉さんがお炊事してくれなきゃ嘘だろうよ、と。
いわれなくても、その通りだと思う。家事は女がするべき、なんて思っちゃいないが(うちの両親の離婚の理由が実にこれでなので、それはもうみっちりと教え込まれ呪いのように染みついている)、小学校高学年の男と高校生の女どっちに家事をさせるかと問えば一〇人中一〇人が高校生の女と答えるに違いない。
しかし忘れもしない小五の冬。米をとぐ課程で三合を二合に減らし、炊飯ジャーでお粥を焚き、手にした包丁で手の甲を切り(二針縫った)、挙げ句慌てて落としたまな板を足の甲に落下させ骨にヒビを入れた時点で、俺はなにもかも諦めた。
家庭科の成績が五段階で五の俺がやった方がだいぶマシに違いない、と。
パジャマに半纏という大変色気のない姿で、みー姉がプレーンオムレツをつつく。
あ、チーズが入ってる。好きなんだあ。
そういって、へらりと笑うものの、まだ半分は寝ているんだろう。あくびを噛み殺しつつ、ご飯は減らない。
「みー姉、コーヒー」
砂糖一杯、ミルク一杯。熱いそれにしばらくふうふう息を吹きかけ、それから一口すする。んあー、沁みるー、と目を閉じて。そして。
「あー、目ぇ覚めた」
毎朝繰り広げる、覚醒の儀式、のようなもの。
肩を竦めた俺は、最後の一口を飲み込んで立ち上がる。時計は八時二〇分。
「弁当そこに置いたから」二つ並んだ弁当の、一個を掴む。「食器はちゃんと下げとけよ。あと、母さん夜勤明けで寝てるから、ちゃんと戸締まりしてな。そんじゃ先行くぞ」
わかったわかった。もぐもぐいいながら箸を振って見送るみー姉を後目に、俺は学校に向かった。自転車で一〇分。割と、ぎりぎり。
一二月。
身を切る寒さの中、屋上の吹きさらしで弁当を開くのはいったいなんの拷問か。
天気もいいし、たまにはいいだろ。そんな友人の言葉に頷いた五分前の自分は底抜けのバカに違いない。手の中で唯一熱を持つ缶コーヒーのプルタブに指をかける。かこ、と乾いた音を立てたそれを一口飲むと、強張った身体が少し緩んだ。
「予想以上に寒かったな」
なぜか感心した口調の友人は、焼きそばパンの袋をがさがさと開いている。
死ね、と呟いて、弁当の包みを開けた。箸がない。
軽く瞠目して、朝の行動を思い返す。弁当箱を閉じて袋に入れる、そして。
なんだよ箸忘れたのか。友人その二の声に顔を上げれば、目の前に差し出される割り箸があった。友人の昼食は、コンビニ謹製タコ焼き二パック。俺は楊枝があればいいからよ、との言葉に甘え、ありがたく頂く。
そうだ、弁当を袋に詰めようとしたときキッチンタイマーが鳴ったのだ。それに気を取られて、うっかり。
ポケットから携帯電話を取り出し、発信履歴をめくる。「みー姉」の文字上で、発信。コール五回の後に、聞き慣れた声が聞こえた。
「みー姉、弁当もう食べた?」
まだー、これから食べるの、と返答が。
「ごめんだけど、箸入れ忘れてると思う。適当に調達してよ」
ええ、珍しいねー、そんな呑気な返事と、がさごそとなにかを探る音。ああっ、ホントだ箸ない、ねえねえ誰か箸余分にある? あるわけないか。学食で貰って来ようかな。一連のやりとりを電話越しに聞きながら、思わず苦笑が漏れる。
『わかったー、わざわざありがとねえ』
じゃあまた後で、そういって電話を切ると、呆れ顔の友人達がわざとらしく溜息を吐いた。
「相変わらずの『良妻』だな」
ツッコミが、かなり微妙だ。
俺の友人間では主に俺のせいで評価が著しく低いが、みー姉はかつてこの学校で生徒会役員をこなしたしっかりものだし、この辺ではそれなりに難しいとされる大学に現役入学したくらい頭もいいし、俺の贔屓目抜きにしても可愛い。
だから普通だったら、俺の立場は非常に羨ましいものなのだそうだ。しかし、事実上「お母さん」状態の日常を見て、その気持ちは萎えた。例えどんな役得があろうともオールデイズ家政婦さんはイヤ、とのこと。まあ、家事慣れしない男子高校生には真っ当な感想かも知れない。
家事慣れしている俺は全く萎えないので、現状は寧ろ好ましいのだが。そんなことは、まあ大きな声ではいえない。
この良妻っぷり、うちの母親にも見習わせたいぜ。たこ焼きをかじる友人が、ちょっと侘びしくぼやいた。
そろそろ試験も近いのだが勉強する気はいまいち起きず、ぼんやりとバラエティ番組を見ていた。テレビの中で若手の芸人が先輩芸人に突っ込まれ、会場から笑い声が起こる。
みー姉から「遅くなる」とのメールが入ったため、夕食は余りご飯で焼飯を作り、フライパンから直に立ったまま食べた。一人の場合はそう取り繕わない。いちいち食器を汚して洗いものを増やすのも嫌だし、とにかく短時間で済ませたいのだ。一人の食事は好きではない。
父がうちを出て母が仕事を再開し、俺が鍵っ子になった頃。夕方家に一人でいるのが嫌だった。
けど、みー姉がいつも早く帰ってきて、うちにいた。あの頃みー姉は高校生で生徒会役員で、結構忙しかった筈なのに。夕方暗くなる前には帰宅して、一緒にテレビを見たり夕食を食べたり、持ち帰った生徒会の仕事をしていたり(そしてときには俺にそれを手伝わせたり)したのだ。
みー姉は、優しい。
時計の針が九時を指す。
テレビ番組は二時間サスペンスへ移行。温泉女将の名推理、湯けむりに沈む死体は何を物語るのか、奇跡の密室トリック、それは一二年前の悲劇が全ての発端だった。とかなんとか、タイトルがやたら長くて既に粗筋だ。
試験勉強は明日にしよう。俺は調理専門学校に進学希望なので、受験はほとんど関係ない。学期末試験も消化試合のようなものだ。
家事慣れがこうじて、料理に興味を持った。長期の休みに近所の手作りパンの店でバイトをして、殆どパン作りには携われなかったがとても楽しかった。家で試しにパンを焼いてみて、ホームベーカリーを買おうかと真剣に悩んだ(就職したら初ボーナスで買ってあげるよ、とのみー姉の申し出に思い直したが)。
調理専門学校に行きたいんだけど。そう母にいったとき、当然のように隣でくつろいでいたみー姉は、花嫁修業? 本格派だあ、とにんまり笑った。なんでだアホかお前は、と一息でつっこむ俺をよそに、いつでもお嫁に来ていいんだからね、ウチは家あり車ありババ抜きの好条件だよ、などと芝居がかった口調。仕様がないので「嬉しい、アタシ頑張って修行するわ」と指を組んでうるうる乗ってやると、いい加減にしろと母に殴られた。丸めた新聞紙で。ぺこん。
それにしてもみー姉遅いな。いや、成人したいい大人に九時十時で遅いもないもんだが。明日は土曜だし、みー姉も休みなんだろう。だから午前様になったって、悪くない。悪くないんだけど。
テレビはちょうど第一の犠牲者が発見されたところ。湯船に浮かぶ全裸の、なんだ、男か。軽くがっかりしていると、ピンポーンと呼び鈴が鳴った。誰だこんな時間に。
渋々立ち上がって玄関に出る。鍵が開かないんだよー、とふにゃふにゃした声が聞こえた。なにやってんだみー姉。
鍵を開けてやると、にゃっはっはっはたっだいまー、などと酒臭い息で喚くので、慌ててみー姉の家に移動した。
「なんでー、なんで入れてくれないのー、わたしをおうちに入れてよー」
腕を掴んで引きずると、じたばたと抵抗する。なんか涙声。なんでだ。母さん寝てんだよ明日早いんだ、そういうと抵抗は止んだものの、ごみんごみんにゃはははは、とまた笑う。つか「ごみん」て。この酔っぱらい。
みー姉をリビングに置き、温風ヒーターをつける。ついでにテレビもつけ、二時間サスペンスにチャンネルを合わせる。
一旦家に戻り、こっちは消灯。冷蔵庫から冬でも常備の麦茶を取り出し、みー姉んちへ戻り。
みー姉から目を離したのを、軽く後悔した。
脱ぎ捨てられたコートを広い、ソファの背もたれに引っかける。それから、非常に聞きたくないんだけど、一応。
「……なにしてんの」
「迎え酒ー」
鎮座ますのは琥珀色の液体。それをビールジョッキになみなみと、ロックですらない超ストレート。
こめかみを押さえつつ瓶を取りあげる。ワイルドターキーの八年物。
「ちぃも飲む? 飲むよねえ。でも若造には飲ませないのだ勿体ないからー」
真っ赤な顔してにゃはにゃは笑って、なぜか隣に並んでいた牛乳を空のビールジョッキに注ぐ。はい、と差し出されたそれを受け取り、はあと溜息を吐いた。
お腹空いたよーつまみー。ばたばたと騒ぐので、キッチンに立った。
普段ウチに入り浸りのせいか、冷蔵庫にはマヨネーズと卵くらいしか入っていない。どうしたもんかなあと頭を巡らし、インスタントラーメンを発見。
「ラーメン食うか?」
「味噌ー? 醤油ー?」
「塩」
「食べるー」
野菜物が全く見つからないので素ラーメン、卵は大丈夫そうだったので月見にしてやる。
リビングに戻ると、みー姉はぼんやりとテレビを見ていた。ラーメンを作っている間に、二時間サスペンスは第三の殺人シーンまで展開していた模様。犯人らしき人影と、それを強請ろうとする女。あれは最初の被害者の連れじゃなかったか。ほら、逆襲された。アスファルトに広がる血液と、走り去る足音。様式美だ。
みー姉、そう声をかけると、はっとしたように振り返った。それから、取り繕ったように、笑う。
熱いから気をつけろ、そういってどんぶりを置くと、おー月見だわーい、そういって早速すすった。
「あち」
こっちも、様式美。
ジョッキの液体は残り四分の一ほど。飲み過ぎペース早過ぎ。飲んだ後はラーメンだよねえ、なんて頷いているスキにそれを取り上げ、麦茶と交換しておく。
みー姉は、ウワバミだ。そしてもれなく陽気になる。笑い上戸というやつだ。
けど。今日のそれは違った。様子がおかしい。いつもなら俺がそばにいようがキッチンに立とうが止まることなくマシンガントークをかまし、どれだけ酔っていようともテレビにツッコミは忘れない。先程のシーンを見て、どうしてファミレスとか人目の多いところで強請んないかなーなどと無茶なものいいをしないのは、みー姉にはかなり珍しい。というか、有り得ない。
牛乳を一口含む。
「なあ、みー姉、なんかあった?」
直球で聞くと。
麺を口から下げたまま、ぼろぼろと、涙を零した。
ずびずび鼻をすすり、ずるずるラーメンをすする。
ずるずるずる、ごくん。汁を飲み干し、どんぶりと箸を置き。ティッシュを箱ごと差し出すと、二、三枚取って涙をふき、鼻をかんだ。泣き上戸追加か、みー姉。
「ごちそうさま」
「うん」
「えーと」
「それで?」
右へ左へ目を泳がせる。
その時、テレビの二時間ドラマが佳境に入ったのか、
”大丈夫、一人でもやっていけるよ”
そんな台詞がやけに鮮明に聞こえた。
と。一瞬目を大きく見開いて。みー姉は、また、だばだば涙を流した。「無理だよー」そういって。
今度はティッシュを十枚ほど消費。
ええっとね、と、鼻をすすりながら話し始めた。
「わたしの就職先ね」
「うん」
「この街に、支店があるでしょ」
「うん」
「だから、そこで働くもんだと思ってたんだけどね」
「うん」
――市に行かなくちゃ、だめなんだって。
ここから車で三時間ほどの、間に市町村を六つほど挟んだ地名をあげる。
うん、頷きつつ、俺は動揺する。それはつまりどういうことだ。ああそうだ、うちからは通えない。だから、つまり、
「うちを出なくちゃならないんだよ」
沈黙。
二時間サスペンスはエンディング直前。探偵役の女将と中居が、あの娘は一人になってしまったのね、大丈夫ですよ女将さんああ見えて結構しっかりしてるんですから、そんな会話を交わしている。エンディングテーマのイントロが入って、スタッフロールが流れてきた。
「わ、わたし無理だよ一人暮らしとか。ちぃちゃんいないとなんにもできないよ」
すんすんと鼻を啜る。
「――って、居酒屋で友達に相談したら、怒られた」
あふ、と息を吐いて。もう一度、鼻をかんだ。
「いつまでもちぃちゃんに依存してちゃダメだ。しっかりして、独り立ちしないと。ちぃちゃんの負担になるよ。っていうか既になってるよ。わたしの方が四つも年上なんだから、ちゃんとしなさい」
うう、と口元が一瞬わななき。ぐ、とこらえて、首を振る。
負担じゃないよ、ずっと依存してていいんだよ、寧ろ依存するように仕向けてたんだよ、じゃないと可愛くて頭がよくて年上なみー姉に、俺の手が全然届かなくなるじゃないか。
エゴ丸出しの、本音をぶっちゃけそうになった。
けど、ただこれだけ、口にした。
「負担じゃないよ。みー姉は、負担になんかなってないよ」
ちぃちゃんはやさしいね。でもダメなんだよ。わたし、しっかりするよ。
そういって、みー姉はこてっと倒れる。
眠っていた。
都合よく夢なんか見やしなくて、割と爽やかに目が覚めた。
こういうときはアレだろ。悪夢か、あるいは子供の頃のほのぼの甘酸っぱい想い出なんかの夢を見て、ちょっとは浸るのがセオリーだろうに。
カーテン越しの窓はまだ大分暗い。時計を見ると、六時を指していた。早い。
二度寝する気が全く起きなくて、布団から這い出した。
リビングへ降りていくと、人気はないもののまだ暖気が残る。母さんは出勤したばかりか。ダイニングテーブルに残された空の食器はまだ乾いてはいない。肩を竦めそれを流しに下げる。ついでにコーヒーを入れ、リビングへ戻った。
空きっ腹にコーヒーが沁みる。
そのまま、テレビをつける気にもなれず。ぼんやりと考えた。
夕べ、みー姉を部屋に運び。
にゅーとか奇声を出してしがみついてくるのをひっぺがし、ベッドに放り込んだ。
勝手知ったる所だし、くっつかれるのは慣れているが。嘘。かなり理性が必要だった。柔らかい感触が気持ちよくて、抱き返したくてたまらなかった。
みー姉服着たままだったけど、着替えさせるなんて以ての外。酔っぱらいの無防備さか、信用されてるのか眼中にないのか、好き放題やってくれるがこっちは健全な青少年。かなり頑張ってなにもしないで、部屋を出た。
勿体なかったな、とちょっと思う。朝チュンを一緒に迎えて、関係を変えるチャンスだったかも知れない。
いいや、と首を振る。
みー姉が好きだし、物心着く頃には既に姉としてではなく家族としてではなく好きだし、傍に居たいし居て欲しいし触りたいし色々したい。
けど。
それ以上に、大事なのだ。優しい大事なみー姉が、俺が原因で傷ついたり不快な思いをしたりするのは、嫌だ。
そして怖い。拒絶されるのが。
ああ畜生。「僕みー姉のお嫁さんになるんだー」とか、子供の頃は気持ちだだ漏れでいえたのにな。「わかった。お姉ちゃん頑張っていい旦那さんになるよ」って、みー姉も真面目な顔して答えてくれたっけ。
ちなみに俺が「お嫁さん」で間違いない。どういう訳か、多分みー姉がお姉さんで、とてもしっかりして頼りがいあるように見えていたからだろう。それとも誰かになにかを吹き込まれていたのだろうか。その場合、母さんぽい気がひしひしとするが。とにかく俺は、みー姉のお嫁さんになるのが夢だった。……、いやそれはどうなんだ。大丈夫か子供時代の俺。
とりとめもなく思い出す。
なにかの拍子で、そんな子供時代の戯れ言が話題になったことがあった。あれは俺が中坊になりたての頃。
――ねえ、お嫁に行くならやっぱ三高? でもわたし背ぇ低いからなあ。学歴と収入は努力でどうにかなるんだけどねえ。
なんの話だよ、と怪訝そうに首を傾げれば、いや、ちぃちゃんがお嫁に来る話、と返ってくる。なんで俺が嫁に行くんだよ。ええっ来てくれないの? 子供の頃約束したじゃない。
バカな会話の応酬だ。その頃には、みー姉が結構タチの悪い冗談を好むことが理解できていたので。しょうがねえな、と乗ってやった。
……あー、あー、あー。そうだったな。ごめんね、みー姉。
芝居がかった口調で。気持ちうるうると上目遣い。
いいのよ、ちぃちゃん。許してあげる。だからわたしのお嫁さんになってね。
みー姉も手を組んで、うるうると俺を見下ろして。
うん、わかった、みー姉。俺、頑張って花嫁修業するよ。
うん、まってる。わたしも三高目指して牛乳飲むよ。
………。
ぷっ。
あはははは。
――バカだ。バカがいる。
いつの間にかコーヒーはすっかり冷めていて、時計の針は九時を指していた。
そろそろ朝食を作ろう。みー姉は休みだろうから、寝かせたままでいいか。いつもなら休日だろうと容赦なく八時には起こし、朝食を一緒に摂るのだけど。なんとなく今朝は、起こしに行きたくない。
いい加減、潮時なんだろう。みー姉を、俺離れさせる。なんか凄い字面だな。俺離れ。どんな日本語か。そして俺も、みー姉離れしなくちゃならないんだな。かなり、嫌だけど。
みー姉が就職活動を頑張っていたのを、結構苦労していたのを俺はずっと見ていた。やっと就職が決まったとき、にまにま凄い嬉しそうに、お祝い事ならこれが定番でしょうとドンペリ持って帰ってきて、始終笑いながら一晩で空けて。それに素面でつき合わされた俺は、一晩中みー姉の演説――面接の様を再現し、鹿爪らしく志望動機を語り、かと思えば給料がいいんだようえっへっへ、と人の背中をばんばん叩く――を聞かされた。
だから邪で矮小な俺の都合で、邪魔するわけにはいかない。縛り付けておくことは出来ないのだ。それでも束縛したいなら、束縛できる立場になればいい。けどそこへ踏み出せない臆病な俺には、そんな資格はない。
あ、なんかすっげえヘコんで来た。なんつう自虐。俺ってそこまで駄目なやつだっけ。駄目なやつか。料理洗濯家事一般で女一人依存させておくって、改めて考えるに死ぬほどセコい。
考えながらも手は淡々と動いて、ベーコンエッグにご飯にみそ汁、朝食らしい朝食が目の前に揃っていた。
アホな俺のために、たまにはちゃんと、配膳しよう。一人の食卓に、器に綺麗に盛られたご飯おかずが並んでいく。
我ながら完璧だ。そう悦に入っていると。
「どうして起こしてくれないのー」
ふくれっ面で、みー姉がリビングに入ってきてテレビをつけた。
おうベーコンエッグだ。そういうや、みー姉は俺の箸を取ってつつきだした。
いいんだけど。まだ手をつけていないし。
肩を竦めてご飯みそ汁をみー姉の前へ移し、自分用にもう一つ用意しに行く。ベーコンエッグは一人分だったのだが、もう一人分焼くべきか。ベーコンはあれで最後だったので、ただの目玉焼きにする。
焼き上げてダイニングテーブルに戻ると、みー姉がこっちを睨みつけてきた。
「どうして起こしてくれないのよう。ちぃが起こしてくれなかったから、『おか○さんといっしょ』見逃しちゃったじゃない」
おか○さんといっしょ、て。俺は激しく脱力する。
ピー○ー・ラビットも最初見逃したし、とぶちぶち文句をいいながら。半熟の黄身をご飯に乗せる。
「ちぃ、醤油」
「ああ」
いつもの癖でいわれるままに醤油を手渡し、釈然としないまま俺も朝食を取り始めた。
……ええと。なんだろう、この当たり前の朝は。
怪訝に思いながら、テレビの教育番組に目を向ける。イギリスの田園風景が広がっていた。
「ちぃ」
低く、呼ぶ声。
「どうして、起こしてくれなかったの」
「……」
「どうして」
「だって、みー姉しっかりするっていったじゃん」
俺の返答に、みー姉はむーと唸って、
「しっかりすると、自分で起きなくちゃいけないの?」
「しっかりしなくても、それくらいは自分でしなくちゃダメだろ、ホントは」
突き放す。あれだ、獅子は千尋の谷に子供を突き落とす。そして自分も、逆側の谷にころげ落ちるのだ。
と。ちょっとキモイ自己陶酔をしていると。
「わかった」
あっけらかんと、みー姉はいった。「やっぱ、無理」
ぽかんと。恐らく俺史上最高の間抜け面で、みー姉を振り返る。やっとこっち見たね、とみー姉はふにゃふにゃ笑う。
教育番組に目を戻し。あのね、とみー姉は話し出した。
「夜中に目を覚ましてね、ちょっと考えたの。あのね、無理。いろいろ無理。それで、ちぃちゃん連れて行きたいなと思ったんだけど、ちぃちゃん学校あるし」
うあー、なんかやっぱりちょっとなんかな。みー姉は口の中でごにゃごにゃ呟く。それから、んー、とまた唸って。
「ちぃ、コーヒー淹れて」
なにか凄いことをいわれたような気がするが、ひょっとすると便利アイテム扱いなのかも知れないと思い直す。
とにかく激しく動揺していて、インスタントじゃなく豆を挽くところから始めてみた。
砂糖一杯、ミルク一杯。持っていくと、おそーいありがとー、と文句とお礼を一緒にいって受け取る。
ふうふういって、コーヒーを飲すする。んあー沁みるー、とか、いつもの台詞で目を瞑り。
「あのね」
割と真顔で、こっちを向いた。
「ええと、ほんとにちゃんと考えました。そいでねちぃちゃん、聞いて欲しいの」
こくん。コーヒーで喉を潤す。
俺は黙って頷いた。微妙に、顔に熱が集まるのが判る。けどなにもいわず、頷いた。
みー姉は続ける。
「んとね、わたしはちぃより全然年上のくせに全然頼りなくて生活力がありません。料理とかも苦手です。頑張って独り立ちしようと一瞬考えましたが、やっぱりダメです。ちぃちゃん愛してるから、ずっと面倒見て下さい」
……打算が直球で現れていて、いっそ清々しい。
なんか気が抜けた。ああ結局、現状維持か。
「わかったよ。大丈夫だよ、面倒見てやるから安心して」
苦笑ながら、そう答える。
するとみー姉は、むーと膨れた。
「違うよ本気だよプロポーズと取ってくれてもいいくらいなんだよ」
「えぇ?」
そんな奇声を上げるのが、精一杯。
俺にとって都合がよすぎる展開じゃないかとか一足飛びにいろいろ飛びすぎてなにがなんだか判らないとか、両想いなのかやったぜっていうかみー姉にいわせてんのかよどこまでヘタレなんだ俺はとか、いろいろぐるぐる考えるも取りあえずこれだけ確認する。
「まさかと思うけど就職止めんの?」
あれだけ頑張ってたんだから、それは阻止したい。俺の進学先を変える方が容易いだろう調理専門学校なんてその街にもある筈なんだから。
そう続けようとすると、きっぱりとした声。
「止めない。やりたい仕事だし、給料もいいし」
じゃあ、と口を挟む前に、衝撃の事実が続いた。
「だから頑張るよ。
研修は三ヶ月だから、我慢する」
「三ヶ月? っていうか、研修?」
ちょっとまて。
「うん、研修。あれ、いってなかったっけ?」
いってねーよ。つーかたった三ヶ月のためにあれだけの悲壮感かよ。
呆れてものもいえないでいると、みー姉が拗ねた。
「なにいってるの三ヶ月って九〇日もあるんだよ朝昼晩と食事が二七〇回だよお昼は社食があるらしいけど朝と夜は自力なんだよコンビニ弁当一八〇食も食べるなんて今から考えてもかなり嫌なんだよ」
そのものいいはとても可愛いんだけど、どうなんだ。
「世の中の人がみんなちぃみたいに卵のカラザ取り除いて料理してくれるわけじゃないんだからね下手するとわたし三ヶ月卵断ちだよ」
いやそれくらいは食べようよ市販のお菓子(卵入り)は食べるくせにただのわがままだっての。
「あうあうやっぱ土日休日絶対帰ろう交通費バカにならないから車欲しいなお父さんの車持っていったら怒られるかないやいやそんなケチくさいこといってちゃダメかねえちぃちゃん交通費出すからお休みの日にご飯作りに来てくれるかなあ」
拗ねるほど、みー姉は饒舌。なんてダメな人なんだ。あーもう、可愛い。
わかったわかったなんでもしてやるから安心して、そういうと、わーいと抱きついて来て俺の頭をぐりぐり撫でた。
いい感じに胸が当たって、凄い役得。なんかつうか俺も、精神状態がいろいろやばい。主に幸福感で。
「その変わり目指せ年収一千万で頑張るし、苦労はさせないからね」
無理はしないでね、そう答えると。
「わーいちぃ優しいなあ、みー姉は優しいお嫁さんが貰えて幸せだよ」
みー姉があんまり嬉しそうに笑うので。
もう嫁でいいよっていうか嫁がいいよ、とか。非常にダメな結論に達してしまった。
それはやっぱり、どうなんだろうな。
20061224
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