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「てり」
静寂な図書室、静寂な試験前。俺の前に鎮座ましましているものはといえば、黄色い背表紙の文庫本だった。
試験まであと二週間。つまり、緩やかな現実逃避だ。
部活を休みにした意味がない、と顧問には怒られそうだが、普段はグラウンドを走り回っている時間帯だ。教科書ノートと首っ引きなんてできようはずもない。
さりとてツートンなじみのボールを蹴りに行く度胸があるわけでもなく。
形だけでもなんとかしようか。そんな前向いてんだか後ろ向いてんだか斜め左後方を見てんだかよくわからない心持ちで図書室へ行って、ふと目の端にひっかかったのは覚えのある作家名だった。
ああ、非常に楽しく鑑賞した再放送の刑事ドラマ、その原作にこの名が冠されてたっけ。なんで日本のドラマに原作外人よ、と訝しく思ったんだよな。
そんなこと考えながら向き直ってみれば、その隣には同作家のシリーズ物と思しき本がずらり並び。つい興味ひかれるタイトルに手を伸ばし、今に至る。
うむ、見事な現実逃避だ。
しかもミステリ、シリーズ物。あまり本を読まない俺だがその恐ろしさは耳にしている。というか、姉に聞いた。徹夜した眠いでも続刊読んでないから眠れないナチュラルハイで楽し過ぎ、と一気に。
まあいいや。まだ試験まで二週間あるしな。
夏休みの宿題をためた小学生のようないい訳をして、俺は文庫本のやや黄ばんだ頁をめくった。
ふ、と違和感を感じて顔を上げた。
いつの間にかずいぶん日は傾いて、夕陽になりつつある日差しが手元まで延びている。
熱。
うあ半分読み終わってしまったよ。栞代わりの付箋を貼り付け、文庫本を閉じ。ふー、と息を吐く。
――視線というものは。例えば赤外線のように、実体――というのは変だな、つまり、熱かなにかを持っているものなのだろうか。
違和感、ちりちりとした緊張感、或いは圧力。
そんなものを、首筋に感じる。感じるってことは、やはりなにかしら存在してるんだろうか。
埒もないことを考えながら振り返ってみる。貸出カウンターの向こうにいる女生徒と、まともに目が合った。
緑のリボン。三年生だ。図書委員だろうか。けど、三年生はもう引退してる時期じゃないか。それとも、図書委員会は例外的に引退が遅いんだろうか。ゆるく波打った髪、前髪だけ、すっきりとヘアピンでとめている。べっこうの飾りの付いた、地味なピン。
観察しつつも振り返った無理な姿勢で固まっていた俺だが、金縛りが解けるのは彼女の方が早かった。
「や、やっほー」
首を傾げ小さく手を振る彼女はしかし、ひきつりつつ棒読みだった。
「びっくりしたよ。突然振り返るんだもの」
カウンターの向こうからこちら側へ。窓際のテーブルの、俺の向かいに腰掛けた彼女は、そういいながら積まれた本を一冊手に取る。
お客さんいないから受付業務は休憩です、といいながら。
「おお、87分署だ」ぱらぱら、と数頁めくり、「『警官嫌い』から読んだ方がいいと思うよ。『死んだ耳の男』はかなりの変化球だから」
「あ、そうなんですか。タイトルが面白いから取ってみたんですけど」
「ある程度シリーズ把握してから読んだ方が面白いよ。あと、発表の順番と翻訳の順番って結構一致してないから、時間順に読みたいなら注意した方がいいかな」
「え、そうなんですか?」
「うん。解説に詳しく載ってるよ。でも続き物ってわけじゃないから、あんまり気にしないで気になったタイトルから読むでいいんじゃないかな」
「はあ……、えと、先輩、ありがとうございます」
すると彼女は、胸元で拳を握った。うんうんと頷いて、勢いよく顔を上げ、
「いいなあ敬語、うん、すごくいい。先輩。やっぱり先輩だよね。体育会系は礼儀正しくて気持ちいいなあ。ああなんか凄く嬉しい」
満面の笑み。
俺は思わず、上体を反らす。
――ふと、なにかが引っかかったが。
「ああ、ごめんごめん。退かないで」
慌てたように手を振る彼女に、意識が引き戻される。
「委員会の子達とかね、さん付けだったんだ。それはそれでいいんだけど、先輩もよかったよなあ」
ふにゃっとした笑みで、過去形。
もう委員会は引退したのだけど、そう前置きして。
「今から『先輩って呼んでみて』って頼んだら、やっぱり退かれるかな」
退くと思います。
「――あれ」ふと、気づいた。「先輩、引退したのにどうして受け付けやってるんですか」
やはり図書委員の引退時期も他の委員のそれと同時期なんだな、と納得しつつ。
「息抜きのようなもの、です」
彼女は文庫本を山に戻し。
疑問符の浮かんだ俺に気づき、更に言葉を足した。
「ええとね、推薦が内定したから、よゆーなんです。で、図書室に入り浸っているのよ」
今日はね、後輩が用事があるっていうから、貸し出しの受付当番を代わったの。そういって、図書室の入り口に視線を移す。
人気のない、廊下。
「ああ……、ええと」
ふと浮かんで、嫌味になりかねないと口ごもった言葉を。
「優雅だね」
引き取られてしまった。
本好きの人間に本の話をさせると、結構大変なことになる。
エド・マクベインについて実に楽しそうに話す彼女に相づちを打ちながら、俺はそんなことを悟っていた。
キャレラが一番人気だけどマイヤー・マイヤーもいい味だしてる、とか。クリングは女運が悪いに違いない、とか。「八千万の眼」が一押しだ、とか。
面白いからいいんだけど、ちょっと圧倒される中。食い付ける話題がやっとあがる。――昔日本でドラマ化したんだよ。
「ああ、俺、その再放送見ましたよ。それで、興味持ったんすよ」
「あ、それで納得した。運動部の子なのに図書館に来て珍しいなあ、って思ってたんだ」
「そうですね。実際俺も、滅多に来ませんし」
一瞬流して、しかし引っかかった。なにに。運動部の子、という言葉に。そういえばさっきも、そうだ、体育会系っていってたよな。
「――俺、部活とか、話しましたっけ」
彼女は、しまった、といわんばかりに舌を出していた。
「ええとね」あらぬ方向へ眼を泳がせながら、「実はあなたのこと、知ってるんです」
彼女は小さく肩を竦め。うーっと、その、ね、と。焦ったように、言葉を探している。
――空気が。
どこか、気恥ずかしく感じられた。俺の気のせい、ではない。これは、なんだろう。ひょっとして、いやまさか、けど。焦燥のような期待のような、なかなか微妙な落ち着かなさ。心音が高まり、頬に熱を感じ。
それは一体どういう意味で。
そう、問いかけようとしたとき。
彼女が先に、口を開いた。
「グラウンドがね」
窓の外を、指差す。爪が、丸く綺麗に切られている。
ゴールの脇に、見知った顔が居た。制服のまま、リフティングをするバカ。
「ここから見えるのね。――よく、走ってるでしょう、ボール追っかけて、犬ころみたいに」
む。ちょっとどきどきが収まる。
「よくね、眺めてたの。首筋や肩が日に焼けて」
外に向けていた視線を俺に戻して。
「照り焼きみたいだなあって」
俺は文庫本の表紙に突っ伏した。ごん、と鈍い音を立てて。
「わ、嫌な音がしたよ」
慌てたような、彼女の声。
「……犬ころはまだしも、照り焼きってなんですか照り焼きって」
脱力して突っ伏したまま俺はつっこむ。声音が恨めしそうなのは断じて気のせいだ。がっかりしたためではない。
「美味しいよね」
「そりゃ美味しいですが」
「えと、退いた?」
「どん退きです」
「うあ先輩に向かってどん退きまでいいますか」
「後輩に照り焼きいう先輩はどん退かれて当然です」
「う、……でもまあ、ここまで知られたら一蓮托生です。先輩はこれから、さらにどん退かれること請け合いなお願いをしますので聞いて下さい」
彼女の言葉に顔を上げると。
開き直ったのか、彼女は上目遣いに俺を見た。両手を祈るように握ったりなんかして、あざとくもかわいい。なんて卑怯な。
「聞くこと前提ですか」
それでも抵抗を見せると、彼女はにっこり頷く。
そして、いった。
「首筋、噛んでいい?」
俺は椅子ごと思い切り後退った。
そして当然の如く後方に控える本棚にぶつかり、再び打ってしまった今度は後頭部を手で押さえる。
彼女は立ち上がり、俺の前まで歩いてきた。
「痛くしないから。大丈夫、ちょっと、甘噛みするだけ。あむあむって」
そういって、顔を覗き込むように、上体をかがめる。
くるんと揺れる髪が、俺の胸にとぐろを巻き。ボタンに絡まることなく、流れ落ちた。
そして間近に聞こえる声。
「お願い」
俺は無言で、頷いた。
上着を脱いでネクタイずり下げる。シャツのボタンを三つまで外し、襟をぐいと引いた。
「えーと、どうぞ」
「ありがとう」
彼女は嬉しそうに笑って――ちくしょう、ホントになんて嬉しそうな顔だろう、見とれてしまいそうにかわいいじゃないか――俺の肩に、手をかけた。
首筋に顔が近づく。吐息がかかって、くすぐったい。
「まずは味見」
小さく声が聞こえて。ぬるりとした、感触があった。
ぞくぞくする。
「ん、しょっぱい」呟き声。「では、いただきまーす」
あーん、なんてかけ声らしきものが聞こえたとき。
がらっ、と、戸を引く音。
先輩はぱっと身を離し、振り返る。
少しのざわめきと靴音が、そう遠くない場所から聞こえた。
多分、階段を挟んで隣の、三年の教室だ。
誰かが帰るところなのだろう。音は段々に、遠ざかっていく。
やがて完全な静寂が戻り。
「――やっぱり、落ち着かないね」
そういって。
彼女は俺の胸元に手を伸ばし、シャツの襟を、整えてくれた。
その後の彼女は少し元気がなくて。口数少なく、本をぱらぱらめくっている。
真っ暗になった窓外と時計を順番に見て、はーっ、と溜息を吐き。
「もう閉める時間です。本、借りていくなら受付して?」
俺は文庫本を手に取り、表紙を眺める。物騒なタイトル。少し考える。
逡巡の後、やはり、いうことにした。
「先輩、このシリーズ持ってるんですか」
「87分署? 全部揃ってるよ」
「じゃ、いいや」
「読みかけじゃないの?」
「まあ、でも、いいんです。……えーと、先輩、推薦内定してよゆー、っていってましたよね」
本を所定の位置に戻す。
貸出帳や筆記用具を片付け終えた彼女は、うん、と頷きながらカーテンを閉めるため窓際に移動していた。
それを手伝いながら、
「先輩の本貸して下さい。ついでに、勉強教えて下さい」
最後のカーテンを引いて、彼女の前に立ち。
「そんときに、噛んでもいいですよ、首。そのかわり、」
俺も、先輩、喰っていいですか。
彼女はぽかんと口を開け、真っ赤になって。
あうー、と唸って、俯いた。
20041203
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